【01】軽之(かるの)神社・軽太子の塚
2005年5月28日行軍A(俳句の里・城北(16)、旧城北(20)) この場所は、過去2回来てもよく判らなかったため、最後の手段として、松山市教育委員会へ問い合わせてみた。しばらくして、地図付きのメールをいただき、正確な場所を把握した。来てみると、なんと前回やってきた場所と全く反対側であった。 古事記によると、允恭天皇の皇太子である軽之太子は同母妹軽太郎女と許されぬ恋に落ち、太子は伊予の国に流され、後から軽太郎女が追いかけてきてこの地で心中したことになっている。 現在の姫原という地名は、多分ここから来ていると言われているが、また、軽太郎女は衣通郎女(ソトホリノイラツメ)、衣通姫(ソトホリヒメ)という別名が あることから「衣山」という地名もひょっとしてこの地から?とも思われる。いずれにしても、昔は、聖徳太子がわざわざ松山までやってきた?などと思ってい たが、道後温泉の力かどうかはともかく、その時代から結構中央との行き来があるのには驚かされる。 【02】天さかるひな乃伊予路に永久乃愛に生きたまふ二柱の神(八木米蔵)
2009年6月13日行軍D この場所は、姫池奥軽太子塚にある。【03】天飛ぶ鳥も使ぞ鶴が音の聞えむ時は我が名問はさね(軽の太子) 【04】君が行きけ長くなりぬ山釿の迎へ尓行かむ待つには待たじ(軽の太郎)
2009年6月13日行軍D 「道後ぎやまんの庭」サイト(現在は消されているようである。)によると、軽太子とその妹の心中は日本最初の心中事件とされていた。 |
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【05】永き日や菜種つたひの七曲り(正岡子規)
2004年9月5日行軍A(俳句の里・城北(1)) ここでいう「七曲り」とは、加藤嘉明が松山城下町を築く際に、姫原、鴨川のあたりで無理やり川を曲げさせたことをいい、現在は河川改修により、川の曲がった様子をうかがい知ることができないと、碑の説明文にある。一方で、土井中照氏著「松山地名・町名の秘密」の中では、加藤嘉明は松山城の防御ラインとして、いわゆる今治街道からの敵の侵入を防ぐために、このあたりの道をわざと細く、くねくねと曲げ、城からは丸見えとなるよう配備したという書かれている。 足立重信が岩堰で川を付け替えたことは有名だが、その元の川が、現在道後温泉の放生園下を流れている川だとすれば、そのまま道後アーケードをくぐり、水口 酒造あたりから開渠となり、愛媛大学北側を流れて、最終的には宮前川となる。しかし、愛媛大学理学部北東端では、護国神社方面への大川ともつながってい る。こちらは、「道後村めぐり・寺前コース」よろしく、そのまま和気浜へと流れ、先の「七曲り」にあたる。 石手川の流れを代える前は、石手川は現在の平和通を流れていたといわれ、今でもその水脈が、六軒家付近にあるのだということを聞いたことがある。案外松山も昔は水都だったのかもしれない。 松山市教育委員会サイトどは「今日でも、姫原から内宮までの間の国道沿いの旧道に、辛うじてその面影を留めている。」と書かれているが、「七曲り」のルー トは、上の地図の中央奥にある「角田池」の北〜東沿いを中心としたものらしい。具体的には、国道196号で、パルティ・フジ姫原付近のカーブ〜「角田池」 〜セブンスター前から分岐する旧道というのがそれらしい。 |
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