【01】御降りや外湯に通ふ宿の傘(久保蘭香)
2005年8月21日行軍B 松 山の街を巡っていると、このような自宅のような場所の中に句碑があることが多い。名前からみて、多分ここの院長の詠んだ句碑なんだろうと思う。ただ、松山 の隣、今治市宮窪町は全国でも有数の御影石の産地である。石の産出に組合組織があるのは、そこと香川県庵治石だけだろうという。だから、松山市内では宮窪 の採石場と同じ石販売業者が多い。あるいは、神社仏閣に寄贈されている石碑にも宮窪の業者を多く見かける。そういう土壌がまつやま句碑めぐりの土台となっ ていることも見逃せないのではないか。 |
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【02】木の芽日和慶事あるらし村人の(森田雷死久)
2004年9月20日行軍A(俳句の里・城北(11)、旧城北(18)) 森田雷死久は本名愛五郎、明治5年1月26日生、伊予郡高柳村(現松前町)に生まれる。京都仏教大学林へ入学し、明治36年に常福寺住職となる。つまりは、当然ここにあって然るべき碑のようだ。また、森田雷死久は梨栽培などの産業振興にも貢献し、常福寺の寺領二反歩あまりを梨園とし、明治42年には温泉郡小野村(現松山市)にも「赤々園」という梨園を開き、更には大正2年「伊予果物同業組合」を結成し、初代専務となったという。なかなか進歩的な住職である。 |
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【03】祝大輪の菊ぞ咲きけり温泉能里(波多野二美)
2005年9月3日行軍B 検索サイトで調べたところ、「波多野 二美(はたのふみ)は,旧姓池田貞子といいます。大正6年波多野晋平と結婚しました。夫婦とも俳句に親しみ,今井つる女に指導をうけたのですが、昭和24年にはつる女のすすめで松山玉藻会を組織して代表になります。」とある。いや、姓だけでなく名ま変わってないか? というより、なぜ門屋知照邸の前にあるのだろうか。 【04】三谷山神の心なりみかん熟る(門屋知照)
2005年9月3日行軍B 実は潮見小学校あたりでかずまるとうろついた時、このあたりはやけに「門屋」という姓が多いことに気づいていた。だから門屋知照氏というのは、このあたり の有力者だろうという想像はできている。が、この句碑の周りをうろついてみると、建設業をしている「門屋組」の資材置場がある。後で調べてみれば、元愛媛 県建設業協会長でもあるので、多分門屋組の元社長の詠んだ碑なのだろう。それがわかった段階で、敷地が門屋氏又は門屋組のものである可能性が高いことか ら、あまり立ち入らないことにする。【05】古墳見え城山見えて長閑哉(酒井黙禅)
2005年9月3日行軍B 城山という山は多いが、ここでいう城山とは、多分もうすぐ行く例の市道との交差点から北東の方向に見える山のことだろう。ひょっとして、ここでバスを待ちながらの句なのだろうか。ちなみに、このときは草むらの中にひっそりと・・・なんとなくバス停跡に見えないこともないような建物の近くにあったが、ここがバス停ということは、以前はこんな山中にもバスが走っていたということか?そして、なぜここに酒井黙禅?? なお、2009年以降この県道をランニングでよく通るようになったものだが、そのときはこのようにきれいに置き換えられていた。 |
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【06】春光や愛を盡せる蜜柑園(作道放洋)
2005年9月3日行軍B 医座寺を巡って精根尽き果て、元来た道を下っていく。下るだけだから楽ではあるが、疲れたと言うよりも気分が悪い。平坦地に出ると平坦地でも登っているよ うに思えて、とろとろと帰路につく。が、もうひとつ碑があることを思い出し、まさに老体に鞭打つかのごとく最後の句碑へと向かう。阿沼美神社といえば、味酒の方を思い浮かべてしまうのだが、サイトなどで検索すると、味酒阿沼美神社と平田阿沼美神社とはっきり区別されている。 |
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