【01】初汐や松に浪こす四十島(正岡子規)
2004年9月5日行軍A(俳句の里・三津(14)、旧城北(10)) 四 十島といえば、夏目漱石が小説坊っちゃんの中で「ターナー島」と記した島である。個人的には、勝手にその土地に、自分の住んでいた場所又は見てきた場所の 名をつけるというのはいかがなものかとも思う。かつて仕事上で、鹿児島県の人を松山まで車に乗せたとき、桜三里を見て「球磨川渓谷のようだ」と言っている のを聞いたことがある。人間は案外閉鎖的なのか、それとも、人は勝手に身近なものの名称をつけることによって落ち着くのだろうか、とも思う。ただ、確かにこの場所は、ここが瀬戸内海だなあ、と感じさせる場所である。多島といえば、松山よりも今治の方が圧倒的に勝っている。そうでなければ、わざ わざ大都市もない尾道〜今治ルートが瀬戸大橋として開通することはないだろう。多分、興居島がもう少し松山に近く、中島あたりに多島があって、長大架橋を 造る必要がなければ、呉〜松山ルートが開通していたはずだと思う。今治出身の私が思うくらいだから、多分そうだと思う。 【02】かがやき能きはみ白波う知かへし(野村朱燐洞)
2009年6月16日行軍D 俳句の里めぐりで一度やってきたものの、前回はその隣にある句碑を完璧に無視していたのであった。 |
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【03】興居嶋へ魚舟いそぐ吹雪哉(正岡子規)
2004年9月5日行軍A(俳句の里・三津(13)、旧城北(9)) 伊 予鉄道を松山観光港へ向かう道路がオーバークロスする橋の上にある。ここから興居島が大きく望まれる。興居島は島であるのに離島ではない。松山市中心部に 近すぎるため、離島振興法の適応を受けないのだそうだ。愛媛県にはもうひとつ、離島でない有人島がある。それは現在今治市となっている旧宮窪町の四阪島で ある。こちらは全島が新居浜別子銅山の流れをくむ住友企業の所有のためなのだそうだ。ちなみに、元バス停となっているのは、現在この区間の路線バスが撤退したからである。 |
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【04】笠を舗て手を入てしるかめの水(松尾芭蕉)
2004年9月5日行軍A(俳句の里・三津(11)、旧城北(7)) 松 尾芭蕉は実際には松山にやってこなかったが、松尾芭蕉を尊敬する人々の中で、松山市内いたるところに碑が建てられている。また、小林一茶は松山へ2度ほど 来ており、「汲みて知るぬるみに昔なつかしや」と「かめの水」にちなんだ句を「寛政7年紀行」に記しているが、この不動尊が「亀水塚」とされている。このあたりは小規模な造船工場とマリーナが建ち並んでいて、少々ゴミゴミとしたところである。不動尊から更に進むと、「三津の渡し」港山側に出る。ある いは、三津側から陸路でなく、船でやってきても良かったと思う。ここは松山市道ということで、無料で渡しに乗ることができ、松山三津の風物である。 ここから港山に抜け、いよいよ梅津寺へと向かう。かずまるを連れて梅津寺へ行くのは無謀ではある。下手をすると、ここで2時間や3時間はあっという間に犠 牲になってしまう。だが、幸か不幸か先の台風の影響で、伊予鉄道梅津寺駅の海側護岸が崩れ、梅津寺パークも臨時休業している。伊予鉄道梅津寺駅は海側の護 岸が崩れている関係で、高浜行きの電車が駅手前の渡り線で山側に移動している。 さて、この梅津寺一帯のどこかに(旧)8番の碑があるはずだが、よく判らない。JR松山駅にある「俳句の里巡り」表示板では、梅津寺公園と書かれている。 これは困った。梅津寺なのか、梅津寺パークなのか、梅津寺パークの中だったら今日は行くことができない。それとも他の場所にあるのだろうか。仕方がないの で、先に高浜一帯の碑を巡ることにする。 |
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【05〜21】葦刈乃帰れば移る芦火可奈(重松美智緒)全17碑
2006年6月14日行軍B これまで何度やってきても見つからなかった観月山公園下の碑は山野芳幸氏著書「三津界隈はええとこぞなもし」の中で詳細に書かれてあった。6月14日、その日は松山出張でもあり、その帰りに電車に乗って衣山駅で下車をせず、港山まで行った。すでに5時を過ぎており、夕方のラッシュが始まっている。 港山で下車した私は、一旦何度もやってきた三津の渡しまで出て、そこから造船所界隈の細い道を行く。が、この道はすでに3回ほど通った同じ道である。果た してこの先に目的地はあるのか。観月山への登山口を通過する。ここは昨年の真夏にかずまると登っていったが、ほとんど眺望が利かなかった。山の裾野にある のかもしれぬと、目を凝らしていくのだが、そのうち、最初にやってきたとき迷い込んだ観月庵が見えてくる。これまでか、と思った瞬間、その山裾にめざす碑 があった。まさに「あった!」である。 句碑は17句を並べており、判別しづらいほど風化している。 そういえば、観月庵の中にも句碑が乱立しているのを見たことがある。 |
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【22】古乃茂圖邇之留毛那末春裳左句良可南(松尾芭蕉)
2005年7月17日行軍B 以前から、なんで松尾芭蕉?とは思っていたが、松山市内にこれだけの碑を見せつけられると、松尾芭蕉の偉大さが判るような気がする。ちなみに、現在は梅津寺パークは閉鎖され、この場所は公園になっている。 【23】蒼天の島山と海裸の子(森白象)
2005年7月17日行軍B 森白象は高野山管長で座主大僧正とある。森寛紹という名前があるから、これが本名だろうか。色々と調べてみれば、岩国の錦帯橋や鈴鹿市などにも碑を残している。 |
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【24】梅が香やおまへとあしの子規真之(しきしんし)(酒井黙禅)
2004年9月20日行軍A(俳句の里・三津(12)、旧城北(8)) このとき初めて、正岡子規と秋山真之は親友だったことに気づいた。ここへ来て初めて知ったが、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」を読んだことがないのがばれてしまったようだ。【25】接敵艦見之警報聨合艦隊欲直出動撃滅之本日天氣晴朗波高(秋山真之)
2005年9月3日行軍D 日本人で知らぬ人はあまり以内のではないかというほど有名な言葉である。ちなみに、これと上の句碑は同一である。また、この場所は、「梅津寺公園駐車場」から行くことになるのだが、言い方によれば「(旧)梅津寺パーク」と同一となるのだが、実際には梅津寺というお寺の敷地とも取れるため、別の箇所とした。 |
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【26】高浜延齢館にて雪の間に小富士の風の薫りけり(正岡子規)
2005年7月23日行軍B この頃の夏休み期間中は、伊予鉄道郊外電車、市内電車(除坊っちゃん列車)を乗り放題で親子2人600円という冗談みたいな切符を手に松山市内を縦横無尽に・・・もっとも、正岡子規の時代でいう高浜とは、この場所ではあるまい。 |
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