【01】銀杏寺をたよるやお船納涼の日(河東碧梧桐)
2004年9月5日行軍A(俳句の里・三津(1)、旧城北(4)) 定 秀寺一帯は三津の中心街であり、神社仏閣が並ぶ。かつては、ひとつの市に匹敵する賑わいで、松山方面へも伊予鉄道が今よりももっと連結して、それでも満席 だったと言う。先ほども述べたとおり、現在では三津浜へは迂回以外なにものでもない予讃線も、三津浜を無視できなかったぐらい栄えていたのであろう。自動 車の普及と松山市中心部への利便性の向上が皮肉にも三津を没落させてしまったような気がしてならない。もっとも、国鉄が三津浜を経由したのは、松山電気軌 道を廃線とする代償といううわさもある。河東碧梧桐は明治39年から四四年に全国旅行をして、「新傾向俳句」を広めていったが、明治43年8月11日この地の結社三津水戸鳥会の大会に参列した際のものらしい 【02】花の道後ろむく氣能捨てたり計李(藤岡花朝) 【03】堂成りて銀杏三百五十年(五十崎杏沖)
2009年6月16日行軍D |
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【04】しくるゝや田のあら株のくろむほと(松尾芭蕉) 【05】敬へはなほもたゝしや花明り(大原其戎)
2004年9月5日行軍A(俳句の里・三津(6)、旧城北(6)) この神社のように、かつては海際にあったと思われる神社は結構多い。大原其戎の「戎」は「えびす」とも読む。あるいは、この神社からとった俳名なのだろうか。この大原其戎は、この句の前に「花の本大神」と書いている。これは松尾芭蕉を最大限に讃えた言葉だという。松尾芭蕉が松山の街に与えた影響力は大きい。 さて、このあたりは松山港のど真ん中である。松山港はいわゆる重要港湾であり、旅客船の発着場所にしても、松山観光港、高浜港、そしてこの近くにある三津 港と三箇所ある。この三津港からは柳井港方面へのフェリーと中島へのフェリーとが発着している。ちなみに、中島へのフェリーは高浜港へも寄るが、高浜港で は自動車の乗降ができない。高浜港は伊予鉄高浜駅のまん前にあるから、人の乗降の利便性を考え、公共交通機関を必要としない自動車航送については、この三 津港をフェリーターミナルにしている。ただ、この三津港へも最近になって、松山市中心部からの路線バスが増便された。便利なったものだ。 |
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【06】古きみなと三津葉月潮澄みたたへ(竹内武城)
2004年9月5日行軍A(俳句の里・城北(11)、旧城北(7)) かずまるの現在の車の厄払いに行った神社。年始詣でにも出かけている。【07】木のもとにし流裳膾も佐くら哉(松尾芭蕉) 【08】は都さ久羅華の世の中与可り个里(栗田樗堂)
2004年9月5日行軍A(俳句の里・三津(3)、旧城北(3)) 栗田樗堂は、寛永2年(1790)松山松前町の酒造業後藤昌信の三男として生まれ、後に同じ酒造業の栗田家の養子栗田家に入。樗堂の妻は、第六代政賀の未亡人のとら女で、彼女は三津浜の商人松田信英の娘で、後に閨秀俳人として名を知られた羅蝶である。ここからは、三津湾をぐるりと回って港山方面へと向かう。途中伊予鉄三津駅を過ぎたところで大きく左へと護岸がカーブしている。ここはかつて、松山電気鉄 道が三津港へと線路を伸ばしていたという。実際、そこへ行って見ると、それを裏付けるかのように細長い敷地に、白いフェンスで囲われて、「立入禁止、伊予 鉄道株式会社」という管理看板がある。この細い敷地が昔は線路であったということは明らかである。ここの岸壁まで列車でやってきて、そして船に乗ると構想 だったのかもしれない。 だが、競合相手である伊予鉄道は、すでに高浜の地を船の発着地にしていた。だから、三津の没落を恐れる人々が中心となって松山電気が設立されたという。た だ、この狭い地に2つ鉄道会社が競合することにメリットはなく、鉄道松山電気鉄道は伊予鉄道に吸収される。しかし、私の目には、船の大型化が行われれば間 違いなく高浜の方が有利である。昔から伊予鉄道にはそういう力に長けているようだ。そのような時代、ここには、昔どのような風景があったのだろうか。 |
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【11】十一人一人尓奈りて秋の暮(正岡子規)
2005年8月7日行軍B 松山港には松山観光港、高浜港、三津浜港の主要な旅客港がある。松山観光港は大型フェリーと広島方面高速船、高浜港は興居島方面と中島(旅客のみ)、この三津浜港は中島と山口方面のフェリーが発着している。そういうこともあって、三津浜港は乗用車の往来が多い。ここには、1碑に五句が書かれ、そのうちの一句が別の碑になっている 【9】御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花(夏目漱石) 【10】柿食へば・・(正岡子規) 【12】十一人一人尓奈りて秋の暮(正岡子規) 【13】せわしなや桔梗に来り菊に去る(正岡子規) 【14】疾く帰れ母一人ます菊の庵(夏目漱石)
2005年8月7日行軍B 正岡子規は明治28年10月18日に最後の上京の途についた。松山市内を数回散策した直後である。このとき松風会員10人が送別に来ている。上の碑だけが独立しているのも正岡子規、松山最後の句ということらしい。 |
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【15】熟田津爾舩乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許可藝乞菜(額田王)
2005年8月7日行軍B 額 田王の句は学校でも習ったし、「熟田津」とは漠然と今出港(当時は「いまで」と読んでしまっていた。)だと思っていた。現在でもはっきりと場所が特定でき ないでいるというのが興味をそそる。が、過去に相当の人々が研究したうえで結論が出ないものなのだから、私が興味本位で考えるのはやめておこう。道後方面から和気へと流れる大川水系と同じく三津へと流れる宮前川水系のどこかにあったようである。私が今出だと考えたのは何だったのだろうか。ただ、大 川と宮前川は、現在の愛媛大学本部の東側で南北に流れる水路でつながっている。松山城築城以前の石手川は今の平和通付近を流れていたという。松山城と御幸 寺山間にある水路をひとつひとつ追ってみるのも面白いかもしれない。熟田津論争など遠い世界の私にはちょうどよい散策の世界かもしれない。 【16】舟つなく三津のみなとの夕されに苫の上近く飛ふ千鳥かも(正岡子規)
2005年8月7日行軍B ちなみに、この日は郵政民営化決着前夜、各郵便局は静かでした。 |
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