松山句碑めぐり(味生第二)

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【01】北斎院町 高家八幡神社(味生第二)

【01】神祐古来偉功あり炳然たる威徳玉玲瓏人栄え村富む一千載仰ぎ望む高家守護の宮(小原六六庵北斎院町高家八幡神社)

2005年9月4日行軍B

小原六六庵は星岡温泉の競輪保養所にも碑があった書道の権威者。


【02】百階苔磴露叢々蕭鼓鼕々金桂風祇樹森藏清廟遽堂○久住白龍雄高家祠儼思威普斎院郷榮粱稲豊旌幟翩翻社日子来黎庶古今同(古木越堂) ○は「木」ヘンに「眉」

2005年9月4日行軍B

古木越堂は漢詩の権威者のようだ。平成一五年の県民文化祭では選者として名を連ねている。

【02】別府町 浄明院味生第二

【03】熊野の御守遍路の土産とす(森脇田鶴子)

2005年8月7日行軍B

浄 明院は大楠とボタンのお寺として知られている。45代聖武天皇の御代に行基菩薩が佛教を広めるために建てたお寺である。3番の句碑を探したところで4番が ない。とあたりを探し回ったところ、なんと3番の碑の裏にあった。ちなみに、先ほど行った法雲寺の前の道を南へと行くと、宮前川に阻まれるのではあるが、 そのまま直進すると浄明院へと出る。が、浄明院は伊予十二薬師の11番目、戌の方向にあるということでやめておこう。何を言われるか判らない。

【04】即位の記念の□舟植え終る(森脇田鶴子)

2005年8月7日行軍B

さっきの碑の裏側?

【03】南斎院町 日吉神社味生第二
【05】神苑や相生松の緑立つ(酒井黙禅)

2005年9月4日行軍B

日吉神社は元々は山王神社と称していたが、明治3年に日吉神社と改称されたという。相生松とは赤松と黒松が地上1・4メートルのところでくっついており、 日吉神社の縁結びの象徴であった。昭和四三年に市指定天然記念物、翌44年に県指定天然記念物となったが、マツクイムシの影響で枯れ、昭和52年12月に 指定解除されている。

【03】南斎院町 吉重神社味生第二
【06】願いごと思ふがまゝに導きて萬の人を救い賜わん身をもって守りし城は今はなき昔を永遠に語り伝えん荒れ果てし君の御霊は今こゝに眞心集い石鳥居建つ幸せを此の世に命ある限り親子三代後の世までも石鳥居社を建てし世話役の観音様に顔もよく似て(西谷政子)

2006年5月27日行軍B

なにげなく吉重神社についてサイト検索していたら、松山市内に「吉重命神社」ならばあるという。さらに「いせきこたろう」氏サイトを見ていたら、松山考古 館裏の道を登ったところにあると書いているではないか。二点の相違は「あっとえひめ」では「南斎院町吉重神社」、「いせきこたろう」氏サイトでは「南江戸 町吉重命神社」である。多分同じものだろうと容易に想像がつく。


【06】葉は落ちて野末の散りとくちるともその根は枯れち春に栄えん(宍草出羽守吉重)

2004年9月5日行軍A(俳句の里・三津(5)、旧城北(5))

それにしても、奥まったところにある神社である。住宅地図にも記載がないし、こんな山の中腹にあるのも不思議である。ただ、この岩子山は掘れば遺跡が出てくるところだし、あるいはかつては重要な拠点だったのかもしれない。
 宍草出羽守といえば、宍草入道とともに1360年頃には松前城を居としていたが、河野通直がこの城を攻め、以後松前城は湯築城の海上防衛の要塞となっ た。松前城六万石は後に加藤嘉明が入城し、その後関が原の戦いの功績により、松山二〇万石の城主となったのは周知の事実である。西谷政子の詩はこれらの栄 枯盛衰を述べたものだろうか。そして、宍草出羽守吉重というからには、彼を祀った神社なのだろうか。


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