【01】不上西山十数年偶乗春霽酔花前花神不識忘吾否欲報一杯尋舊縁(武智五友)
2009年6月21日行軍D 大宝寺は「だいほうじ」と読む。開創は、大宝元年(701)豪族越智玉興の建立説と、当地の角之木長者建立説があるらしい。武智五友は漢学者で、正岡子規の外祖父の友人であったという。 【02】し多れ咲く花の浄瑠璃世界かな(吉田速水)
2009年6月21日行軍D 隣の山内神社もそうだが、このあたりに「桜」「花」という句が多いのは、俳句の里めぐりの現サイトによると、「「花」とは、本堂の前に繁っている桜のこと で、明治の文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が、その著「KWAIDAN(怪談)」に「UBAZAKURA(姥桜)」として紹介されたことでも知られ ている名桜である。」と書かれている。【03】念ずれば花ひらく(坂村眞民)
2009年6月21日行軍D ここにもあった。句碑数だけでみれば、おそらくトップ争いをするだろう。【04】花見れハ齢そのふる世の人の老ぬ薬や桜なるらむ(石井義郷)
2005年5月29日行軍A(俳句の里・城西(11)) 石 井義郷は文政9年(1812)に生まれた松山藩士で歌人。ここの桜も例の姥桜伝説と関係があるらしい。しかし、道後コースにあった天徳寺の十六日桜を実際 に見てしまうと、単に桜伝説ではすまないような気がする。そういえば、十六日桜を見る前、まだ、城下コースを回っていたときに、11月だというのに、松山 城で咲いている桜を見たことがある。そのときは、その桜が老木だからだという街角案内人の話を聞いたが、桜ひとつにも物語があるようだ。 |
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【05】西山に桜一木のあるじ哉(正岡子規)
2005年5月29日行軍A(俳句の里・城西(12)) 山 内神社は碑によると、享保17年(1732)の松山大飢饉の責任を問われて、松山藩主松平定英が謹慎を命じられ、急逝した際に、目付役山内与右衛門も切腹 したが、後に知行を回復した。文化11年(1814)に松平定通が主君への忠義を讃えてこの神社を建立したとある。江戸時代も飢饉が起こると、藩主が責任 を問われることになっていたということらしい。【06】常磐の末の色ふかき その松山に名も高く 誉れを千歳に遺したる 忠誠義烈の大丈夫松山侯に仕えたる 山内與右衛門久元氏(奥村算貞)
2009年6月21日行軍D 追加碑 |
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【07】苗代尓豊ミえす久や早稲於之祢(四時園其戎)
2005年9月4日行軍B 四 時園其戎はどこかで聞いた名前だと思っていたら、松山藩御船手大船頭の子大原其戎のことだろうと思う。大原其戎といえば明治13年三津に明栄社をおこし て、月間俳誌「真砂の志良辺」を主宰し、正岡子規が師とした人物である。ただ、なぜこんなところに彼の句碑があるのだろうか、とも思う。 |
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【08】春や昔十五万石の城下哉(正岡子規)
2003年11月8日行軍A(俳句の里・城下(42)) この句なら誰でもわかるであろう。城下編の最終回として一番ふさわしいのかも知れない。それにしても、かずまるは碑の前で何をポーズつけているのだろうか。ただ、15万石というのがよく判らない。松山といえば20万石である。ちなみに、小説坊っちゃんの中では25万石と書かれている。が、その割には、この15万石が議論されることはない。まあ、それで良いのかもしれない。 【09】石鎚も南瓜の花も大いなり(富安風生)
2003年11月8日行軍A(俳句の里・城下(41)) 富安風生は愛知県八名郡金沢村出身で、本名謙次。明治43年逓信省に就職したが、翌年喀血し、療養生活を送る。大正八年「ホトトギス」初入選する。昭和12年5月逓信省を退官し、このとき四国旅行をしているが、そのとき新居浜に上陸して読んだ句である。当初は松山駅前ロータリーの中にあったという。以前は伊予鉄市内電車が大手町側から松山駅前に右折する際には、緑地があって、一部専用軌道になってい た。昭和55年の駅前広場の整備事業で現在の場所に移された。昭和55年といえば、私は大学受験の時。何度か松山へきたはずだが、工事の記憶が全くない。 その後4年間は県外生活を送っており、愛媛の記憶が復活するのは昭和60年になってからである。 |
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【10】夜明介から太鼓う徒なり夏木立(下村為山)
2009年7月4日行軍D 下 村為山(しもむら いざん)は本名を純孝という。慶応元年5月21日松山藩士下村純の次男として松山城下出渕町(現松山市三番町)に生まれる。明治24年 の明治美術会春季展に「池辺秋暁」、同秋季展に「敗荷鴛鴦図」を連続出品しているが、従兄の内藤鳴雪を介し同郷の正岡子規と知り合い、俳句の研究に熱中す る。松山市の市章は彼の考案によるものだという。 ちなみに、かずまる特攻隊は学校へは立ち入らないことになっているが、この日はたまたま何らかの事情で、父兄等が出入りしていたため、立ち入らせていただいた。 |
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【11】柿の実能中より光りさすごとし(川本臥風)
2009年7月4日行軍D 川本臥風は明治32年1月、岡山県生まれ。本名。正良。京都大学文学部卒。松山高校―愛媛大学教授。で、この句碑は済美高等学校にある。国道から撮影。 |
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