【01】樗さけり古郷波郷の邑かすむ(水原秋桜子)
2005年5月29日行軍A(俳句の里・城西(5)) 水 原秋桜子は東京帝国大学医学部卒業し、昭和医専の教授となる一方、俳人としての名声も得る。が、「ホトトギス」の高浜虚子らと作風で対立し、雑誌「馬酔木 (あしび)」を主宰する。このように水原秋桜子は松山とは直接は関係ないが、彼の門下生である波郷が垣生村西垣生だから、その関係でここに碑が建てられた のかもしれない。【02】若鮎の二手になりて上り希り(正岡子規)
2005年5月29日行軍A(俳句の里・城西(4)) 正岡子規は現在の松前町にある友人武市庫太宅へよく遊びに行ったという。二手とは重信川と石手川の合流点。東京にいたときの子規がこの場所を懐かしんで詠 んだ句であるという。なんだ、正岡子規が明治28年9月から10月にかけて巡った場所を追ってみようかと思っていたのだが、それ以外にも結構散策をしてい たのか。考えてみれば、散策が先の5回だけというのもおかしいが。さて、松山市内から南予方面へ行く際には、現在もこの橋を越えると松山市を抜ける。逆に南予方面から北上してこの橋を渡ると松山市に入る。そういう旅の出合がそのまま場所となったのかもしれない。 |
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【03】行く秋や手を引きあひし松二木(正岡子規)
2005年5月29日行軍A(俳句の里・城西(3)) 正 岡子規が今出へ行くとき、竹の宮の三島神社へ立ち寄っている。その三島神社かどうかの保障はないが、通り道上であるし、正岡子規の碑でもあるし、ここへ立 ち寄ったとするのが自然である。この三島神社は以前、松山出張の移動中、偶然立ち寄ったところでもある。それにしても、三島神社の数の多いこと。松二木とは余戸手引松のことで、地上5メートルほどのところで2本の松がH型につながっていて、松山市の天然記念物に指定されていた。その松も現在は枯死し、現在はH型部の場所のみが保存されていると言う。 |
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