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昭 和 63 年 冬 |
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昭和63年2月17日(水) 職場で午後から休暇をとって、八幡浜から松山までJRで移動し、松山空港〜東京羽田空港〜千歳空港経由で札幌入り。 2月18日(木) 早朝、網走から斜里経由でウトロ入り。念願の知床峠へのスノーモービルツアーに出かける。 |
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スノーモービルは最高速度時速80キロ、平均速度70キロで走行していく。で、運転が楽そうなところで、私が運転する。が、これがなかなか慣れないと手ごわい。ちなみに、昨年稚内のスーパーで原付よろしくスノーモービルが駐車されていたが、実際に公道を走るためには四輪免許が必要なのだそうだ。 目的地知床峠は標高約1000メートル、氷点下25度の世界であった。 |
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その日は、ウトロでうろうろする。ウトロ港から流氷を見たりしたが、なぜかどの店も17時で店が閉まる。で、食事のとれる店は18時からの開店である。日が暮れての1時間はたまらないので、一旦ホテルに帰ると、なんと、ホテルが1泊2食付であったことを初めて知った。確か6000円だったと思うが、冬のウトロの観光旅館であった。 2月19日(金) 朝8時頃のバスで斜里へ出る。途中、バスの運転手が止まるのでどうしたのかと思ったら、「オジロワシがいる」と指差す。斜里駅ではDE10の重連回送が釧路方面へと通り過ぎる。 |
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列車で再び網走方面へと向かい、浜小清水駅で下車し、流氷を見る。次の列車で「オホーツクに最も近い駅」北浜駅で下車する。浜小清水もそうだが、北浜駅は一部が喫茶店になっており、待合室は国鉄時代のように暖房が入っていなかった。暖房が欲しければ喫茶店へ入れ、という感じである。私も負けじと、インスタントコーヒーにポットから湯を取り出して暖をとる。 | |
再び、次の列車で網走へ向かう。網走駅では湧網線が昨年廃止され、「0番線」の線路が撤去されていた。向こうで183系気動車が留置されている。 | |
網走では天都山へ確か1日往復の定期バスに乗って登る。下の写真の正面が網走刑務所である。帰りは刑務所へ向かって徒歩で下山する。当然ながら湧網線の線路は撤去されている。網走刑務所も人影がなく、そのまま歩いて網走駅へと向かう。 | |
網走からは、午後4時台の釧路行き普通列車で弟子屈駅(現摩周駅)の宿へと向かう。ここの宿代は7000円、はたしてここも1泊2食付であった。先代のオーナーが香川県出身だったとかで、ホテルの中に四国霊場88箇所のミニチュアがあった。 2月20日(土) 弟子屈を8時頃のバスで釧路湿原展望台をめざす。 |
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湿原展望台で下車し、次のバスまで展望台に居座る。上が岩保木方面(釧網線方面で湿原の対岸)、下が釧路市街方面。ついでにこの後「丹頂の里」にも行ってくる。 釧路からは急行「ノサップ3号」に乗車する。浜中で下車し、バスに乗って本日の宿「きりたっぷ里」へ到着する。この宿はこれで8泊目である。いわゆるユースホステルのような「ざこ寝」タイプの宿で、ユースホステルのような規則がない。私はこの手の宿に好んで宿泊した。この宿は前年、暮帰別から榊町へ引っ越したが、前年はバス停から引き返した。今年も同じように引き返したら、宿がない。あわてて、通りかかった車にたずねて場所を教えてもらった。今年宿のまん前にバス停ができたのだそうだ。結局のところ、私は宿のまん前に下車して、引き返していたのであった。 |
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ここの名物はなんといっても「寿司食べ放題」である。が、オーナーは決してそれだけを求めてやってくるな、と繰り返していた。あれから16年、いまだに「イルカ」の音楽とともに生きているのだろうか。 2月21日(日) 同宿者と同行して、藻散布へと向かう。新川十字路でバスを乗り換え、運転手にお願いして、通称「函転涙岬」の付近で下車させてもらう。ここには面白い岩がある。 |
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上が「涙岬」女性の横顔に見える。が、3年前に比べると、かなり浸蝕しているようにも思えた。下が「立岩」これを「きりたっぷ里」のオーナーは「キングコングの逆襲岩」、伝説の北海道のガイドブック「とらべるまんの北海道」では「ゴリラ岩」と名づけていた。なんだか、なにものかが海から出てくる様子がよく解る。 | |
次のバスで元の方向に戻って、今度は「ビワセ展望台」へと向かう。 | |
ここから北側を見ると、上のほぼ中央手前が暮帰別、向こう側が榊町の街並、下はその西方向で霧多布湿原。この日ここで「湿原クロスカントリー」があるはずであったが、雪が少なく中止となった旨の表示があった。 | |
下の向こうに見える山は、嶮暮帰島(島です)以前、ムツゴロウ氏が住んでいた島。現在は榊町の北西に「ムツゴロウ動物王国」があるが、行ってみると「歓迎」と書いていて、その下に「立入禁止」と書いていた。 | |
下が民宿「きりたっぷ里」この楽しかった宿も、当時現在の宿泊志向には勝てないとオーナーがおっしゃっていた。宿のホームページを見ると、1泊2食が当時の2倍の6500円は良しとして、なんとシングルルームまでできている。我々の青春時代は終わったようだ。 ここで、荷物を持って、宿に別れを告げる。 |
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浜中駅から一度茶内駅へ引き返して、再び根室をめざす。 | |
下が落石〜昆布盛間の景色。左の果てが落石岬(「らくせき」ではない「おちいし」)昭和60年3月にはこの間を徒歩で走破した。 | |
根室が近づくと、車窓が一変する。島の上がまっ平になる。日本の風景とは思えなくなる。というわけで、58年4月に初めてやってきて、59年3月、60年3月、62年2月、そして63年2月の5回訪れた。 そして、納沙布岬もこれが5回目となった。色々な姿を見た。1回目は同行者と残り8キロを徒歩で走破した。初めての本土最東端は徒歩で達成した。(ちなみに本土最北端「宗谷岬」もその後やはり徒歩で走破した。)昨年は猛吹雪の中、バスは通常の2倍の1時間30分かかった。 今回は今までの中で最も眺めがよかった。そして、帰りのバスの中で、これが最後であるとも思った。そして、16年間沈黙が続く。 |
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根室から急行「ノサップ」で釧路へ向かい、夜行急行で札幌へ向かう。 2月22日(月) 朝初めて小樽を訪れて、昼過ぎの航空機に乗り、東京経由で松山へと向かった。 |
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2004.01.31執筆 |
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