北海道親子3人の旅・回想編(漫遊紀)

> 旅行の記録へ > 北海道行親子3人の旅へ > 目次 >>

そういうわけで、我々は本土最東端を少々消化不良の状態で出発する。

いや、別に先ほどのいくら丼が消化不良というわけではない。過去6回の納沙布岬で最低最悪だったことに少々いらだちながら、今度は半島の北側を一路根室市街地方面へと戻る。

いやー、それにしても、北海道のこのあたりの道路はすごい。ベニヤ板に乗っているかのような錯覚を覚える中で、しっかりとアップダウンを繰り返す。なんと言っても、通行量が少ないのがよい。

しばらくすると、トーサムポロ沼が見えてくる。この湖は半島の南側へ向かって深く入りくんでいる。一歩間違ったら、ここから東は島になってしまったかもしれないと思えるほどだ。その湖に向かって下っていって、さらに登ろうとすると、

「鹿だー!」

「私には見えん!」

かずまるにそうそう言われたって、運転の気持ちが判るものかい。と思ったら、今度は妻が声をかけてきた。

「お父さん、鹿が湖に入っているよ!」

「運転士にきやすく話しかけるものではない。」

「なら止まれ!」

はい。判りました。

車は止めてみたものの、私には相変わらず鹿なぞ見えん。鹿と馬の区別ができん者をなんとかというが・・・

「何か言った?」

「何にも言ってません!」

「鹿が湖を渡っていたんだけど、どこかへ行ってしまったみたい。」

なんだ、それなら今いくら目を凝らしたところで見えるわけがないじゃないか。

「まあ、これから先いくらでも見られるよ」

道路上に立っていないことを願うのみである。

北方原生花園を通過するが、それらしき花は全く咲いていない。そりゃ、今日の最高気温が一三度だというのでは、咲けという方が無理かもしれない。駐車場にも車が一台止まっているだけである。外は霧雨でもあることだし、そのまま通過する。

しばらくすると、ノッカマップ橋を通過する。ノッカマップ岬が近い。

ノッカマップ岬付近は、巨大な火成岩が太い柱を扇状に広げた柱状節理となっている。このような場所では、きわめて強い磁気が働くため、海岸や沖合いでは進路を誤ったりして、船の墓場となりかねないという。

日本の最東端、船の墓場、なんとなく惹かれるような風景が浮かんでくる。

学生時代の昭和60年3月、今日泊まる民宿のオーナーがツアーで一度この道路を逆に走ったことはあるが、当然ながら納沙布岬が目的だったので、この場所に止まることはなかった。あれから22年後、自分が車を運転して、ノッカマップ岬に近づいている。一体どんな思いをめぐらせることができるのか?だが、

あれえ、道がない?

岬といっても、単に海岸線だと言い張ってもわからない程度の岬なのだが、そこへと続く道は、細く一本のダートであった。しかも、折からの雨で相当ぬかるんでいる。行きたいのはヤマヤマなのだが、ここは諦めざる得ない。というわけで、22年越しの夢はあっけなく散ったのであった。

だが、ノッカマップ岬を過ぎると、草むらの中に本当に鹿がいたのである。かずまるが望遠鏡を構えて、雄か雌かを調べようとするが、幸い雨はほとんど上がっているものの、叩きつけるほどの風でよく判らない。まあ、知床半島に入ればもっと見れるだろう。

車は、根室市街地へと戻ってきた。これから、風連湖のネイチャーセンターで時間をつぶした後に厚床にある牧場で、午後2時から乳搾り体験をする予定である。

というところで、カーナビが左へ行くように指示してきた。

「おっかしいな、この道をまっすぐに行っても、国道44号線に出られるんだが、ひょっとして幅員でも狭いのかな?」

まあ、私の知らない世界だし、ここはカーナビに従って左折をした。が、なんとなく、さっきよりも通行量の多い道に入り込んだような気がする。しかも、国道に出て、この車を借りた店の前を再び通って、そのうち右側に、さっきの道をまっすぐに行けばよかったはずの合流点を見かけた。

ひょっとして、レンタカーの店舗をわざと通らせた?

いや、そんなことはあるまい。多分、我々が通ってきた道は、単に県道、いや道道に沿ってきただけのようだ。

ふっふっふ、そう来たか?だが、私には秘密兵器があるのだ。

実は、3日前から、国土地理院2万5千分の1の地図で、今回走るであろう場所の地図を全てコピーしてきたのである。著作権の問題があるので、ここで見せられないのが残念ではあるが、個人的にプリントアウトすることに関しては問題あるまい。従って、あくまで机上の話ではあるが、すでに私の頭には、今回走るべき道路は全てインプットしてある。しかも、今まで一度も北海道で運転したことがなくても、また、バスなどで走ったことがないところでも、一応土地勘という自身、いや自信というものがある。決して、私は妻のように逆方向の列車に乗ったりはしないのだ。

だから、私は学生時代、網走と釧路を結んだ線より東側にはめっぽう詳しいのだ。わはははは・・・!

とは言うものの、実は私も東京では2度ほど逆方向へ連れて行かれたことはある。が、そんな話をしているわけではないので、これからは、カーナビはあくまで参考資料ということにしておこう。

午後一時頃、春国岱に到着。「しゅんくにたい」と読むらしい。「とらべるまんの北海道」によると、このあたりの地形は地図とかなり異なっているらしい。それだけに、一度は歩いてみたいものだと思っていた。だから、この先の展望台をあえてパスし、手前にある、ネイチャーセンターに向かったのだ。

それなのに、どうしてここで雨脚が強くなるの?

ネイチャーセンターにいる間、雨が強く、とても外に出ることはできない。仕方がないから、屋内から、館内の望遠鏡を借りて、いわゆるバードウォッチングをする。

かずまるは、ここで工作されたと思われるパチンコなどをして遊んでいる。もっとも、こんなことをするために、我々はわざわざ四国からやってきた訳ではないのだが・・・

そうは言っても、時刻も迫ってきているので、仕方なくネイチャーセンターを後にする。が、念のため、春国岱へと向かう。そこで、カーナビが抜かした。

『5キロ以上道なりです・・・』

こらこら、5キロどころか、あと数百メートル走ったら、海へ落ちるぞ!

一体、なんてカーナビだ?が、ちょうど雨がやんだ。春国岱を出発するところで、雨が止むか?と思いながらも、かずまるが車から降りて、一目散に「春国岱」と書かれている看板へと走っていく。

うーん、私としては、看板の前で写真を撮るだけという観光は好ましくないのだが・・・この場合、天候のこともあるから仕方ないのだろう。次があるとは思えないだけに残念だと思いながら、春国岱を後にしたのであった。

我々は次の目的地である牧場へと向かう。厚床から北へ2キロほど行ったところにある「伊藤牧場」である。午後二時集合ということになっているが、相手が牛さんである以上、時間は守らなければならない。国道を走っていると、やたら見かける鹿飛出注意の交通標識を横目に、厚床へと向かう。

それにしても、さすがに道がまっすぐである。法定速度で走って、一時間に60キロ走ることはできないが、10分間に10キロ進むことは不可能ではない。しかも、道は直線だが、アップダウンが結構あり、本当にハンドルを切る回数よりもアクセルやブレーキを操作する回数の方が多い。

目的の牧場へ行くには、厚床駅前で右折するわけであるが、その手前で妙に不自然な高架橋を越える。下には特に何もないようなのだが、ふと、思い出した。

この下は、元標津線の線路だったのでは?

【追憶コラム】

現役当時でも厚床〜中標津間は1日4往復しか走っていなかったが、不思議と私はこの線を活用していた。

開陽台に行くために始発バス停の役場前でバスを待っていたのにバスがやってこないと思ったら、なんとバス停は旧役場前だった。仕方なく、時刻表を見ながら、浜中の酪農展望台へと向かう時に、今から考えれば、よく列車があったものだと思う。数日後、再び開陽台へ行った後、根室へと向かうときも乗った。

そういえば、最初の北海道でも根室〜厚床〜中標津〜標茶〜川湯と向かうとき、厚床で寝過ごして、一度動き始めた列車を慌てて停車させてもらったこともある。

その後、次の駅である奥行臼を過ぎたところでは、雪解け水で風連川が氾濫した中を、線路と並行する道路の2本の線だけが、ひたすら北の別海へと向かっていた。

昭和62年には、根室始発の便で根室〜厚床〜中標津〜標茶〜網走へと向かったら、厚床〜中標津間の車両を回送していたのを確認したこともある。

このページのトップへ >>

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

> 旅行の記録へ > 北海道行親子3人の旅へ > 目次 >>

伊藤牧場へはちょうど2時に到着した。雨が再び強くなっているが、牧場に入ってしまえば、しばらくの間、雨は関係ない。体験客は、我々だけではあった。ともかく、牧場体験と言うのも興味があるものだ。

まずは、子牛へのミルクやりから始まるのだが、考えてみれば、牛から搾ったものは、人間様が飲んで、子牛には人工乳というのも理不尽な話である。

次に、牛へのえさやりである。

「この牛、どのくらいの重さだと思います?」

東京からこの牧場へ長期間働きに来ている女性が声をかけてきた。

「50キロ?」

こらこら、牛の場合、生まれたときがそうだと言ってたではないか。仕方がないから、私か゛助け船を出す。

「トン!トン!」

私の言葉は無視されてしまったらしい。妻がかずまるに教えている。

「700キロ位だってさ。」

ふーん、思ったより軽いんだ。

かずまるは、えさを両手に持って、両手に持って・・・牛の前でへっぴり腰になっている。

「はやく、やらんかい。」

「怖い!」

牛と言えば、草食動物の最たる局地ではないか。とって食ったりせんわい!

「お母さんが一緒にあげるから。」

かずまるの手の下に、妻が手を添えて、一緒に牛へ・・・

というところで、かずまるは、どさどさとえさを母親の手に流し込んでしまった。

「なによ、かずくん、全然やん。お母さんの手に流してどうすんの。」

「無責任な奴!」

もっとも、そういう私も、横でDVC(デジタルビデオカメラ)で撮影しているだけだから、無責任ではある。

かずまるの牛へのえさやりは、そんなこんなで終始したのであった。中には、かずまるが走ってくるものだから、慌てて逃げようとして、足を滑らせた牛もいたぞ。

その後は、牛の乳搾り。

かずまるが、えっちらおっちらと牛の乳絞りをしているのだが、

「お父さん、もう少し、あっち側へ行って撮ったら?かずくんの背中だけ撮っても仕方ないでしょ?」

そうかぁ!判ったぞ!

いやぁ、なんで先ほどから、かずまるの乳搾りの様子が上手くDVCで撮れないのかと思ったら、こいつ左利きだと言うことを忘れてた。

ちなみに、この乳は、飲めるかどうかだけで言えば、このまま飲んでも問題ないらしい。ただ、市販するとなると、食品衛生法の壁が立ちはだかるのだそうだ。

「では、市販の牛乳は、これを薄めているのですか?」

私の疑問に、牧場のオーナーが答えてくれた。

「薄めてはないですよ。乳の中に脂肪の塊があるでしょう。あれを砕くのと、殺菌をするだけです。」

「成分無調整というのは、そのまま出荷しているのですか。」

「そうですよ。後で飲んでもらったら判りますが、脂肪の球が大きいところに糖分が付いてますから、甘く感じるんです。市販の牛乳は油のところが浮かないように、細かく砕いているんです。」

うーん、牛乳ひとつにしても奥が深いものである。

ついでに、もう一つ聴いてみることにした。

「そういえば、30年くらい前の牛乳は、熱をかけたら、すぐに膜ができましたよね。最近の牛乳はそれがないようですが、やっぱり製造方法が変わってきたのですか?」

「やっぱり、工場で大量に消費者に届けるために、脂肪を細かく砕いていることではないでしょうか。」

横から妻が尋ねる。

「ああ、あの膜って脂肪なんだ。たんぱく質かと思ってた。」

おおっ、さすがは薬剤師の見解である。

「たんぱく質は何も変わらないんですけど。」

「あらら、でも、私は子供のときに、たんぱく質って習ったぞ。」

「私も」

おおっ、珍しく、我々夫婦の意見が一致したではないか。

「たんぱく質は、要は100度を超えると、どの肉でもそうですれけど、組成が変わってしまうんですよ。今の場合は、120度で何秒か殺菌してますから、確かに多少は組成が変わってしまうとは思います。」

かずまるは、その間も黙々と乳絞りをしている。その間に、乳が何もしなくても流れ始めた。

「あれえ、何もしなくても、出てきたよ。」

「これはもう、お乳が張ってきたんです。お母さんもそうですよね?」

とオーナーが言う。

「そうでしたね。止まらない時があったよ。かず赤ちゃんの時に。」

「だから、体験を何時でもできるわけではなくて、大体この時期にやらないといけないんです。これで、午後4時からこのまま搾乳ができるんです。」

それで、午後2時集合ということだったのか。体験時間を逆算して、集合時刻が決められているものらしい。

その後は、新鮮な牛乳を飲んで、バター作りをして・・・このバターも作りながら食べることはできても、持って帰ることが法令上できないのだそうだ。残念だが、そのまま置いて帰ることにする。

私は、その一方で、この牧場付近の地図を見ていた。厚床を中心とした牧場めぐりのハイキングマップがあるのだが、この牧場の前の道路が牧場の北側で奇妙なカーブを描いているのが気になっていた。

そのカーブ!標津線をオーバークロスしていた道だ!

標津線といえば、その北側にある風連川の大氾濫の記憶がある場所だ。今日は天気が悪いから、諦めようと思うが、懐かしさに、思わず売店の主人に声をかけた。

「すぐそこに標津線が走っていたんですね。」

「そうですか。私は知りませんが・・・」

なんだ、あんたはここの住人じゃないのか。

このページのトップへ >>