北海道親子3人の旅・回想編(漫遊紀)

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知床峠は、かつて昭和63年2月に、ウトロからインストラクターに同行して、二人でスノーモービルでやってきたことがある。厳冬、標高約700メートル、気温マイナス約20度は、服の継ぎ目の部分がしびれるようだった。例えば、手袋も靴下も二重にしていたのだが、その継ぎ目の部分が痛いのだ。天気は良かったのだが、国後島は見えそうで見えなかった記憶がある。

そして、今日・・・

まずは峠のまん前に見えるのが、残雪の羅臼岳、そして、そこから南方向へ視線を移していくと、

おおっ!国後島がはっきりと見える!

多分昨日の雨が功を奏したのであろう。

だが、それにしても、この視界距離はどうだろう。

「どうだ!最後に見えたぞ!」

「・・・・・」

「・・・・・」

さすがに、妻子ともに言葉がないようである。

だが、それにしても、国後島はでかい!視界に入りきらないではないか!

というより、我々は、国後島を北側から見ていることになるので、それこそ、国後島の南端部分から北端部分を見ていることになる。しかし、残念ながら、ここからは択捉島は、ちょうど国後島の陰になって見ることはできないらしい。

従って、向かって右側からなだらかな弧を描く山が泊山、次に山頂が二つ見えるのが羅臼山、その左側に見える丸い山が円山、その左側の低い部分がニキショロ湖、古釜布沼までが広がる低湿地帯、そして、知床連山の山陰近くに見える山がエビカラウス山で、その向こうに見える高い山が爺爺岳ということか。

うーん、それにしても、この視界はすごい!

そこで、ふと思いついた。

「昨日雨が降ったからだろうな。ということは、開陽台も見晴らしが良いってことだ。」

「おおっ、開陽台!いいねぇ!学生時代に行ったときは、天気良くなくて、あんまり見えなかったのよ。」

「僕の場合は、もっぱら冬だったから、天気は良かったけど、地平線が煙ってて見えなかった。」

「ねえ、『かいようだい』って何?」

かずまるが横から我々の会話をさえぎる。

「あのね。北海道で一番見晴らしが良いといわれている展望台のこと。キャッチフレーズは360度地平線が見えますだけど、それは誇大広告。実際は330度くらい。」

「行く!」

「言われなくったって行きます。でも時間がない。」

そうなのだ。最後に開陽台を持ってきたものの、思ったよりも知床五湖に時間をかけてしまい、時間が迫ってきているのだ。なにしろ、後は中標津空港が待っているから、これだけは待ってくれない。カーナビを見ても、相当の距離がある。これだと、開陽台では余りゆっくりできないのだ。

それでも、イプ様は走った。といっても、やっぱり制限速度は守る。が、羅臼までの道は、やっぱり制限速度40キロが続く。さらに、羅臼の街を抜けても、なかなか制限解除されない。左手後方には、国後島が着いてきている。それを見る余裕はない。

余裕があっても、運転しながら左後方の景色に見とれるのはやめましょう。

だが、このままだと、開陽台では20分程度しか居られないのだ。ようやく、制限解除になっても、やっぱり集落が近づくと、制限速度50キロになる。少々焦ってくる。

薫別という集落のところで、道路工事をしていて、片側交互通行になっている。こんなところで、時間を食うか?と思ったが、そこで薫別という地名を思い出す余裕ができた。

ここにあるトンネルから横道へ逸れるのだ。カーナビはずっと国道の距離を示している。

案の定、横道へ逸れたとたんに、一気に20キロ以上短くなった。イプ様は最後の直線をまっすぐに開陽台へと向かう。

まっすぐな道で、前方を走る車が坂道を下っていったために見えなくなって、しばらくして、坂道を登っていくのが再び見える。そんな光景がずっと続く。そして、車は最後の目的地開陽台へと到着した。

私にとって開陽台とは、時刻表にあった役場前バス停が実は旧役場前だという、

外部の人間が判る訳ねーだろ!

であったのだが、おかげで、2回も中標津町へやってきて、しかも、二回目は足の調子が悪いという中、養老牛温泉行きの町営バスに乗り、約16キロ歩いて、帰りは武佐方面からの町営バスに乗るということをやった。

開陽台へ登る道は心細かったが、一歩踏み出すたびに視界がそれだけ開け、白銀の世界は、なんだか月面のような錯覚を受けたものである。

だが、標津線が廃止され、北海道への沈黙の間でも、中標津町は完全に私の脳裏からは消えてしまった。だが、今回、根室中標津空港から北海道を離れる。

今回の開陽台からの視界は凄かった。

だが、妻子といえば、相変わらず、展望台の売店やビデオに没頭している。

そんなものより、現物を見ろ!

というわけで、私一人が先に展望台へと上がる。

国後島が見えるのはもちろん、開陽台にある望遠鏡では、国後島の建物までもがはっきりとみえる。

その展望台には先客がいたのだが、携帯電話で奥さんらしき人と話をしている。

「向こうに島が見えるよ。なんだろうね。」

などと言っている。あれこそは「国後島ですよ。」と言ってあげると、トーンが一オクターブ上がったように興奮して話し始めていた。

というところで、妻子が展望台へ上がってきた。

「うわああ!」

などという言葉だけでは、退屈だろうから、今回は止めておく。

でも、これだけは言わせてくれ!

「うわああ!」

同じではないか。

だが、今回が本当に最後になるのだ。しかも、前半徹底的に雨にたたられて、最終日にようやく、おつりがきたような状況である。それくらいは言わせてくれい!

とまあ、くどいようだが、本当にフライト時刻が迫ってきているというのが、本当に残念である。

晴れたら晴れたで、今度はフライト時刻が敵かい!

と言いたくなるような、今回の北海道旅行であった。相手がお天道様だから、仕方ないとはいえ、少々ストレスがたまったことも事実である。

そんなこんなで、時間が来たので、我々は開陽台からの眺望を諦め、指示されていたガソリンスタンドへ寄り、イプ様との別れがやってきたのであった。

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終 章 北海道を離れて・・・

今回の北海道は親子3人としては、最初で最後だと思っていた。だが、今回の旅行は、天候にも決して恵まれたとは言えず、さらに一九年間の沈黙と、かつての旅人的な旅行からの脱却ができていなかったことによる色々な失敗もあって、結構消化不良があったことも事実である。

だが、そういう消化不良が、案外後になって「ああ、今回の旅行は良かった!」といえるのかもしれない。

事実、自身完璧とも思われた昭和63年2月の北海道旅行では、旅の終わりに「これが最後かな?」と思ったものである。そして、19年間の沈黙が始まったものである。

だから、案外、「親子3人としては、最初で最後」というのも、今回の失敗が原因となって・・・ということもあるのかもしれない、と思いながら、根室中標津空港を後にしたのであった。

離陸後、あれほどなかなか見えなかった釧路湿原が眼下に広がり、あっと思うまでもなく、太平洋へと出てしまうのを目の当たりにしながら・・・

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