> 愛媛の散策へ > 松山の俳句・歴史・風土へ > 道後村めぐりへ |
今年は山歩きの年!のはずが、自転車特攻隊!! |
かずくん倶楽部が回った順に掲載しています。 (撮影は特に記載がなければ全て出撃日) 第3部 9月23日午前11時〜午後0時半
27番常信寺:色鳥のいろこぼれけりむら紅葉(黒田青菱) 松山藩主が鬼門の鎮護のために建てた天台宗の寺。句碑は寺内にある(2003.11.15撮影)。「色鳥」は秋渡って来る、美しい羽色の鳥のことだが、「色」から秋が想像できるからこれが秋の季語と松山市教育委員会のサイトには書かれている。が、それなら「紅葉」もそうだから、季語が重なっていることになる。
26番松山神社:しろ山の鶯来鳴く士族町(高浜虚子) 菅原道真を祀る社と徳川家康を祀る東照宮を合わせた神社。句碑は参道の階段途中にある(2003.11.15撮影)。「句碑のある松山神社は、明和2年(1765)3月、道後の湯月八幡宮(今の伊佐爾波神社)の山祠を、久松定静公が、この田高の岡に移し、徳川家康を祀って「東照宮」と称し、松山城東北の鎮めの神社としていたが、明治43年(1910)12月、御幸寺山麓の天満宮をこの地にうつして、この社に、菅原道真公をも合祀して以来、「松山神社」と称し、祝谷地区の氏神さまとなっている。(松山市教育委員会のサイトから抜粋)」というから、「松山」という地名が入っていることへの疑問が解けた。そういう紆余曲折があった神社なのだ。
3番円満寺:散と見し幻消て花に月(奥平鶯居) 大地蔵は道後温泉に来た僧行基が楠の大木に彫ったものと伝えられている。この句碑は梅滴(鶯居の俳号)翁の墓の裏面にあるらしいのだが、かずくん倶楽部は一般のお墓には踏み込まないことにしたので、撮影はしなかった。
4番宝厳寺:色里や十歩はなれて秋の風(正岡子規) 時宗の開祖一遍上人誕生地。句碑は左写真のかずまるの左手にある。この句にも「色」がある。これは色づく木々とネオン坂の色とをかけたものだが、後ろに「秋の風」がある。単に「色」だけでは季語ではないようだ。
5番伊佐爾波神社:栗の花こぼれて居るや神輿部屋(河東碧梧桐) 湯築城の鎮守神として河野氏の崇敬を受けた。今日も結婚式をしていた。ちなみに、ここのトイレもよく整備されているので(実際整備しているのをよく見かける)、散策中大変重宝させてもらっている。
2番湯神社:道後なる湯の大神の御社のもとにぬる夜となりにけるかな(与謝野晶子) 今回の最終地点となった。1回目と3回目がへんろ橋、2回目が松山神社、そして4回目がここである。ここは、道後温泉の守り神として、大国主命と少彦名命が祀られ、昔から道後の湯が止まると、ここで湯祈祷が行なわれていた。なお、この後ろにある中嶋神社は兵庫県にあるお菓子の神様の分家で、その方面の方々の名前がずらりと並んでいる。 |
かずくん倶楽部が回った順に掲載しています。 (撮影は特に記載がなければ全て2005.09.19) 第2部 9月19日午後0時半〜午後4時
18番愛媛県民文化会館:ふるさとに花の山あり温泉あり(高浜虚子) 高浜虚子といえば、正岡子規を頂点とする近代俳句の中で、河東碧梧桐の自由詩に対して、正統派の俳句を目指したことで有名である。が、正直言ってしまえば、この俳句がなぜここにあるべきなのか?イマイチ理解できない気もする。
14番湯築城跡:温泉をむすぶ誓も同じ石清水(松尾芭蕉) 松尾芭蕉が松山へやってきたと言う記録はない。が、松山には彼の句碑が結構ある。つまり、松山で俳句を語るうえでの影響力は計り知れないと言うことであろうか。
9番へんろ橋:霞む日や巡礼親子二人なり(夏目漱石) ここは、50番札所繁多寺とと51番札所石手寺をむすぶ遍路道。「巡礼親子二人なり」とは、我々親子の姿か?仲秋に巡礼親子の放浪哉昨夜は中秋の名月でした。
10番東野御茶屋跡:ふるさとのこの松伐るな竹切るな(高浜虚子) 句碑は左写真に見える。東野御茶屋は旧松山城主久松氏の造った庭園であったが、明治になって、現愛媛県農業大学校の農園として、その後は愛媛県研修所、農協学園として、その大半が失われてしまった。かつて愛媛県は庭園造りに熱心であったが、それこそ、この庭園を復旧してこそ・・・と思われる。
8番岩堰:鮎寄せの堰音涼し宝川(酒井黙禅) 句碑は左写真に見える。足立重信が岩を削って石手川を重信川に流す工事をした。現存する石手川は人工の川だということである。それ以前は、現在の道後温泉付近を流れている川だったろうし、現在の平和通付近を流れていたともいう。平和通界隈では、昭和の終わり頃でも井戸生活している家庭も多かったと言う。昔の松山は結構水の豊富な街だったのだろうが、案外それが、現在の水不足の認識を鈍らせた原因なのかもしれない。
11番風土記の丘:薫風や風土記の丘をかくてなほ(富田狸通) 句碑は右写真に見える。昨日の25番で述べた、伊予国風土記逸文の中でこの聖徳太子の碑文のことが記されている。「湯の岡側に碑文を立て,その立てた所を伊社爾波の岡」と詠んでいるのだが、かつての伊社爾波神社は湯築城付近にあったというから、風土記の丘ということから、このあたりに「聖徳太子の碑文」が隠されているのかもしれないし、ひょっとすると、ここは風土記の丘ではないというのかもしれない。
7番石手寺:鎌倉のむかしを今に寺の鐘(前田伍健) 前田伍健(句碑は2003.11.30撮影)は,明治22年坂出市に生まれ伊予鉄道に入社、野球拳の開祖として名をはせている。
6番義安寺:このほたる田ごとの月をくらべ見ん(松尾芭蕉) 豊臣秀吉の四国征伐で敗れた河野家の家臣が、本堂の側にある誓いの泉で自刃し、源氏蛍となったと言う伝説がある。(左は2004.04.02撮影)
16番子規記念博物館:教へたるままに唯行く遍路かな(波多野晋平) 波多野晋平は明治17年山口県萩市に生まれる。大阪商船入社後、松山の高浜支店へ赴任する。酒井黙禅を師としたという。今日はここでイベントがあったようだ。でも、なぜ子規記念博物館に波多野晋平?
15番道後公園:元旦や一系の天子不二の山(内藤鳴雪) 句碑は湯築城址入口(2003.11.08撮影)にある。だから、句碑だけを探してやってきた我々は同じ句碑とも知らずにやってきたのであった。今となっては、無知もはなはだしい次第である。
13番湯釜薬師:寝ころんで蝶泊まらせる外湯哉(小林一茶) 句碑は右手(2003.11.08撮影)にある。小林一茶は松山には無縁かと思っていたが、結構松山に来ている。これは道後温泉本館の湯釜で、現存する最古のものは 奈良時代の天平勝寶年間(741-757)に造られて以来、 明治27年に新しい湯釜が据え付けられるまで使用されていた。 |
かずくん倶楽部が回った順に掲載しています。 (撮影は特に記載がなければ全て2005.09.18) 第1部 9月18日午前11時〜午後1時
24番十六日桜(天徳寺):つくしけん人のまことをにほはせてさくかむ月のはつさくらばな(西村清臣) 自宅から親子3人で自転車特攻隊。妻曰く、ここの幼稚園は通園バスがド派手でもあり、かずまるをここへ入園させようかと思い、下見に来たことがあるが、校庭が狭くてやめたのだという。だが、ここは天徳寺というよりは、やはり十六日桜である。今年2月に咲いた桜を見た時は本当に「なんじゃこらー」と思った。色々な十六日桜の伝説も調べた。2年前には、松山城で10月に咲く桜も見た。たかが桜とあなどるなかれ・・・である。 この句碑は、実際には十六日桜伝説の本家、ロシア人墓地の前にある竜隠寺桜台との間にある孝子吉平邸跡にある。(2003.11.30撮影)
23番長建寺:よくみれば薺花(なずな)花咲くかきねかな(松尾芭蕉) この句碑は長建寺の回遊式庭園の池の南側にある。また、ここには「もりもりもりあかる雲へあゆむ」という種田山頭火の句碑もある。かずまるに種田山頭火の句碑だけは教えられない。自由詩から五七五になっていない理由を問われたら、答えられない。 ロシア人墓地へと向かう「マドンナバス」左手前が長建寺、向こう側が猫の多い不退寺。今日もかずまるは猫にちょっかいをかけていた。
22番来迎寺:永久眠る孝子ざくらのそのほとり(波多野二美) 句碑は来迎寺北側のロシア人墓地(2003.11.30撮影)にある。当時はえっちらおっちらと山を登っていったが、今は観光路線バス(マドンナバス)が運んでくれる。
21番千秋寺:山本や寺は黄檗杉は秋(正岡子規) 句碑は寺内(2003.11.15撮影)にある。「山本」は御幸寺山の麓のことであって、人の名ではなかった。千秋寺はかつて「道後鉄道」の駅名にもあったほどで、歴史が深い。が、その一方で、ここはトイレも整備され、お弁当を広げられるスペースも確保されている。ここで何度くつろがせていただいたか。というより、ここにかずくん倶楽部は何回来たんだ?
20番一草庵:鉄鉢の中にも霰(種田山頭火) 句碑は敷地内(2003.11.15撮影)にある。さすがは漂泊の俳人である。バス停もできて、人がたくさんやってきて、「これですか?」といわれようが、「これだ!」といわんばかりの風格がある。道路村めぐりだって、この句碑を飛ばしては考えられないだろうし、だからバス停が新設されたとき、あえて「一草庵」としたんだろう。
19番護国神社:熟田津に船乗りせんと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな(額田王) 句碑は護国神社というよりも、北西側の植物園(2003.11.15撮影)の方にある。ただし、実際の句碑の内容は漢字だけで書かれている。 ようやく道後温泉駅へやってきました。この付近は自転車でなくてもいける場所が多く、今日敢行するひつようはないため、とりあえず昼食をとりに・・・
25番椿湯:日月照於上而不私神井出於下無不給(聖徳太子) 伊予国風土記逸文の中でこの聖徳太子の碑文のことが記されており、日本最古の金石文といわれている。しかし、伊佐爾波神社に埋めたとか神社自身かつては湯築城付近にあって、築城のため移転したと言われ、現在まで発見されていない。
1道後温泉本館:伊予の湯に汀にたてる霊の石これそ神代のしるし成ける(古歌) 道後温泉本館前のいつものそば屋で昼食をとって、道後温泉本館といえば、知らぬ人はいるまい。が、この句碑(2003.11.23撮影)は案外見落としやすい場所にある。
17番道後温泉駅:古町木屋町打ち過ぎて行けば道後の温泉場(大和田建樹) 伊予鉄道道後温泉駅(2005.07.02撮影)まあ、何も言うことはないでしょう。
12番放生園:春風やふね伊予に寄りて道後の湯(柳原極堂) 放生園というよりも、からくり時計としての方が有名となった。が、有名な街角案内人がいなくなって、少々寂しくなった。句碑はからくり時計の東側(2003.11.08撮影)にある。
道後温泉駅で駐輪中、アイスを食べながら休憩していると、突然かずまるの自転車の方向で「ボン!」という大音響とともに煙が舞い上がった。すわ、爆竹か?テロか?と、一時付近は騒然としたが、すぐに人気はなくなった。が、場所がかずまるの自転車なので行ってみると、前輪のタイヤがが粉々になっていた。 原因は不明。考えられるのは、タイヤが直射日光に当たっていたこと。元々がかずまるの従兄のお下がりで、さらに補助輪がついていたこと。つまり、経年劣化と、そもそも長距離を考慮されていないと考えられる。あるいは、タイヤが限界に来ていたところで、直射日光がとどめを指したのかもしれない。何にしても、乗車中でなくて良かったと思う。ということで、ここで中断。帰りに新車を買ってきた。 28番瀬戸風峠:鷺谷に一本淋し枯尾花(正岡子規) 帰りは、妻の自転車にかずまるが乗って帰り、その後、自家用車でかずまるの自転車を回収に再び道後温泉駅前へ行った。そして、今回は昨年の人々を批判できぬ、自分自身が自家用車でやってきてしまいました。(写真は2005.04.02撮影) |