愛 媛 の 観 光

道後村めぐり・2006年春

 
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道後村めぐりリニューアル!これは回りなおすしかない!

 

かずくん倶楽部が回った順に掲載しています。

(撮影は特に記載がなければ全て出撃日)

最終回 6月4日(日)

 

30番:春光や三百年の城の景(酒井黙禅)

句碑は松山市祝谷5丁目道後公民館祝谷分館(句碑は2003.11.15撮影)にある。正岡子規の句から変更された。

が、最終回は、なんと今回も自家用車で乗りつけるという最低最悪の結末を迎えることになってしまった。次はまじめにやろう、って、まだやるのか?

 

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かずくん倶楽部が回った順に掲載しています。

(撮影は特に記載がなければ全て出撃日)

第4部 6月3日(土)午前11時〜午後1時

 

3番鷺谷墓地:降る雪や明治は遠くなりにけり

俳句の作者中村草田男や秋山好古らが眠っている。といっても、かずくん倶楽部は墓地散策はやめたんですけど・・・まあ、入口でよかったか。

ちなみに、この碑、かつて国鉄時代、東海道新幹線の命名時には「はやて」は「疾風」と書き、速いことは速いが、疫病のイメージもあって採用されなかったというのに、東北新幹線八戸延伸時には、一般投票18位だった「はやて」が採用された。このときに、そのスジの掲示板で「降る雪や昭和は遠くなりにけり」と書き込んだ人がいた。

 

29番常信寺:色鳥のいろこぼれけりむら紅葉(黒田青菱)

松山藩主が鬼門の鎮護のために建てた天台宗の寺。以前同様、本日もトイレに行かせていただきました。

 

28番松山神社:しろ山の鶯来鳴く士族町(高浜虚子)

菅原道真を祀る社と徳川家康を祀る東照宮を合わせた神社。この句碑めぐりも色々な思い出があったものである。

 

15番石手寺:鎌倉のむかしを今に寺の鐘(前田伍健)

前田伍健は、明治22年坂出市に生まれ伊予鉄道に入社、野球拳の開祖として名をはせている。が、石手寺には計98碑があるといわれている。その中で選ばれたのだからすごい。

 

16番風土記の丘:薫風や風土記の丘をかくてなほ(富田狸通)

句碑は右写真に見える。昨日の25番で述べた、伊予国風土記逸文の中でこの聖徳太子の碑文のことが記されている。「湯の岡側に碑文を立て,その立てた所を伊社爾波の岡」と詠んでいるのだが、かつての伊社爾波神社は湯築城付近にあったというから、風土記の丘ということから、このあたりに「聖徳太子の碑文」が隠されているのかもしれないし、ひょっとすると、ここは風土記の丘ではないというのかもしれない。

 

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(撮影は特に記載がなければ全て出撃日)

第3部 5月30日

14番義安寺:このほたる田ごとの月をくらべ見ん(松尾芭蕉)

今回はなんと手抜きなことか。お茶屋方面へ行くのがめんどくさいということで、かずまるに「お父さん行ってきて」と言われてしまった。まあ、こっち方面へ行く用事があったので・・・

19番へんろ橋:霞む日や巡礼親子二人なり(夏目漱石)

ここは、50番札所繁多寺とと51番札所石手寺をむすぶ遍路道。ただ、ここへひとりでやってきたのでは意味がない?

向こうに、先日行った杉立山が見える。

こちらは、愛宕山、これも先日行った。

17番岩堰:鮎寄せの堰音涼し宝川(酒井黙禅)

足立重信が岩を削って石手川を重信川に流す工事をした。酒井黙禅というのがいい。でも、結構こり人松山市内をうろついているのですね。

18番東野御茶屋跡:ふるさとのこの松伐るな竹切るな(高浜虚子)

句碑は左写真に見える。東野御茶屋は旧松山城主久松氏の造った庭園であったが、明治になって、現愛媛県農業大学校の農園として、その後は愛媛県研修所、農協学園として、その大半が失われてしまった。

 

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(撮影は特に記載がなければ全て出撃日)

第2部 5月20日午後1時〜午後2時

 

27番天徳寺(十六日桜):つくしけん人のまことをにほはせてさくかむ月のはつさくらばな(西村清臣)

自宅から親子2人で自転車特攻隊。かずまる曰く「今日は桜は咲いていないの?」、十六日桜は2月下旬に咲くからそういうだけで、初夏には咲きません。しかし、今年は2月下旬には咲いていなかった。句碑は実際には十六日桜伝説の本家、ロシア人墓地の前にある竜隠寺桜台との間にある孝子吉平邸跡にある。

 

26番弘願寺:念ずれば花ひらく(坂村真民)

新句碑のうちのひとつ。だが、この句碑は「高木町高音寺」「南高井町ていれぎ名水の里取水場」「権現町県立盲老人ホーム権現荘」、さらには「今治市国分寺」にある。わざわざ、弘願寺がこの句碑を並べる必要は?おまけに、門前にはアンパンマンの石碑もあるし。イマイチよく判らんお寺。個人的には「念ずれば花ひらく」よりは「二度とない人生だから・・・」の方が好きである。長すぎて枠に入らんのだろうが。

 

25番長建寺:もりもりもりあかる雲へあゆむ(種田山頭火)

以前と句碑が変わった。ここは以前「よくみれば薺花(なずな)花咲くかきねかな」であった。かずまるに種田山頭火の句碑だけは教えられない。自由詩から五七五になっていない理由を問われたら、答えられない。

 

24番来迎寺:永久眠る孝子ざくらのそのほとり(波多野二美)

句碑は来迎寺北側のロシア人墓地にある。が、今日まで「孝子」とは、「たかこ」と読んで、女性の名前だと思っていたが、新しいスタンプ帖にはローマ字が記載されていて、「こし」と読むことに初めて気づいた。

 

23番千秋寺:山本や寺は黄檗杉は秋(正岡子規)

句碑は寺内にある。「山本」は御幸寺山の麓のことであって、人の名ではない。ここはトイレも整備され、お弁当を広げられるスペースも確保されている。が、今日は先客がいたので、そのまま通過した。

 

22番一草庵:鉄鉢の中にも霰(種田山頭火)

句碑は敷地内にある。バス停もできて、人がたくさんやってきて、「これですか?」とよく言われるが、今日もかずまるに「ここは人の家?」と言われた。そして、私もここで一句詠んだ。「鉄体の外は霰耐えがたし」お粗末!!

 

21番護国神社:熟田津に船乗りせんと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな(額田王)

句碑は護国神社というよりも、北西側の植物園にある。ただし、実際の句碑の内容は漢字だけで書かれている。

 

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(撮影は特に記載がなければ全て出撃日)

第1部 5月6日午後3時50分〜午後4時半

 

12番道後温泉駅:古町木屋町打ち過ぎて行けば道後の温泉場(大和田建樹)

伊予鉄道道後温泉駅、詩をよくよくみれば、これはかつての城北線そのまんまである。木屋町からは千秋寺口を通って、まっすぐ道後温泉へと向かっていたのが、当時の道後鉄道である。ちなみに、ここはかつての17番、番号が違ったことに気づいて、再び道後村めぐりへ。

 

13番放生園:春風やふね伊予に寄りて道後の湯(柳原極堂)

からくり時計はかつての1億円ばらまき政策として造られたもの。各地悲劇、喜劇がある中で、さすがは松山市、堅実なものを造ったものである。

 

2番椿湯:日月照於上而不私神井出於下無不給(聖徳太子)

伊予国風土記逸文の中でこの聖徳太子の碑文のことが記されており、日本最古の金石文といわれているが、まだ発見されていない。

 

1番道後温泉本館:伊予の湯に汀にたてる霊の石これそ神代のしるし成ける(古歌)

句碑は道後温泉本館の北側隅にあり、案外見落としやすい位置にある。この横断歩道は常に車と人と往来が激しく、自動車を本館の東側(向こう側)に通して、この道は歩行者専用道にする計画らしい。

 

4番円満寺:散と見し幻消て花に月(奥平鶯居)

3番が新規の碑であるのだが、これは鷺谷墓地である。坂を上っていく必要があるので、今日は飛ばしていった。この碑そのものは、梅滴(鶯居の俳号)翁の墓の裏面にあるらしいのだが、かずくん倶楽部は一般のお墓には踏み込まない主義である。ならば3番はどうしようか?

 

5番宝厳寺:色里や十歩はなれて秋の風(正岡子規

時宗の開祖一遍上人誕生地。この句の「色」は色づく木々とネオン坂の色とをかけたものだが、後ろに「秋の風」がある。単に「色」だけでは季語ではないようだ。現在のネオン坂は夜来たことがないのでなんともいえないが、いかにもうら寂しい感じがする。

 

6番伊佐爾波神社:栗の花こぼれて居るや神輿部屋(河東碧梧桐)

社殿は重要文化財として指定されている。それにしても、河東碧梧桐としては、定型句だな、と思うのは私だけ?

 

7番湯神社:道後なる湯の大神の御社のもとにぬる夜となりにけるかな(与謝野晶子)

道後温泉の守り神として、大国主命と少彦名命が祀られ、昔から道後の湯が止まると、ここで湯祈祷が行なわれていた。なお、この後ろにある中嶋神社は兵庫県にあるお菓子の神様の分家で、その方面の方々の名前がずらりと並んでいる。

 

9番道後公園:ふゆ枯れや鏡にうつる雲の影(正岡子規)、半鐘と並んで高き冬木哉(夏目漱石)

今回のリニューアルで碑がかわった。子規記念博物館にある碑である。正岡子規と夏目漱石が松山で暮らした日は、そう長いものではなかったが、なぜかこの二人の碑が並んでいると落ち着く。

 

8番子規記念博物館:足なへの病いゆとふ伊豫の湯に飛びても行かな鷺にあらせば(正岡子規)

なぜ子規記念博物館に波多野晋平?と書いていたら、正岡子規に変更された。悪いことをしたような気がする。鷺といえば、道後温泉の由来を意味する。足に傷を負った鷺が温泉で癒しているのを見て、その湯に何か効用があるのかと思って、同じようにしたところ、色々な病が治ったという話は有名である。これらのことを含め、道後温泉が日本最古の温泉とされている。この句は、正岡子規が晩年病のため、歩くことができなくなったことから、鷺のように道後温泉で癒したいとした句である。

 

10番湯釜薬師:寝ころんで蝶泊まらせる外湯哉(小林一茶)

小林一茶は松山には無縁かと思っていたが、結構松山に来ている。これは道後温泉本館の湯釜で、現存する最古のものは 奈良時代の天平勝寶年間(741-757)に造られて以来、 明治27年に新しい湯釜が据え付けられるまで使用されていた。

 

11番湯築城跡:温泉をむすぶ誓も同じ石清水(松尾芭蕉)

句碑は釜薬師から湯築城跡へ少し登ったところにある。この付近には「道後村めぐり」や「俳句の里巡り」など、たくさんの句碑があるため、ここの場所は案外見落としそうである。

 

20番愛媛県民文化会館:ふるさとに花の山あり温泉あり(高浜虚子)

高浜虚子といえば、正岡子規を頂点とする近代俳句の中で、河東碧梧桐の自由詩に対して、正統派の俳句を目指したことで有名である。が、正直言ってしまえば、この俳句がなぜここにあるべきなのか?イマイチ理解できない気もする。

 
 

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