松山の観光案内 |
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第12話 東野お茶屋跡 〜松山藩主の隠居所〜 |
:現在松山市東野にある「お茶屋跡」は、徳川家康の弟定勝の子松平定行が、松山藩主として寛永12年(1635)に松山へ入り、明暦4年(1658)、定頼に藩政を譲ってこの東野に別荘を造ったものです。琵琶湖に模して池を掘り、ほとりに清水寺をかたどった観音堂があり、東海道五十三次のミニチュアを造ったわけです。下の図は以前記載した、桑原中学の生徒が描いたもので、東野バス停からお茶屋へ登っていくところの公園にあったものです。
現在は一部を残して保存されていません。下の写真で言うと、手前の校舎が桑原中学校で、その向こうがお茶屋跡です。右側が愛媛県研修所で、その向こう側に現在のお茶屋跡が広がっており、その左側に研修所の運動場、愛媛大学の農園となっています。 このように見てますと、確かに上の図のお茶屋の形になっているように見えます。(2005.05.07) |
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第13話 岩堰(いわぜき) 〜川を造り替えた男 足立重信〜 |
松山市の中心部南側を流れる石手川ですが、以前に聞いた話では、石手川はかつては平和通り付近を流れていたということです。このため、(昭和末期では)城北、六軒家付近を中心に(当時は)井戸を使っている家が結構あるのだということを聞きました。 さて、その石手川ですが、松山城を造った加藤嘉明の臣下である足立重信が治水と防御のために、かつては道後付近を流れていた川を重信川に向けてバイパスを築いたとされています。 時代が時代ゆえに困難も会ったと思われますが、それ以上にこの岩堰付近の地形を見ると、よく工事ができたと思います。特に、石手川ダムから岩堰までの川の形状を見る限り、そのまま石手川が流れていくのが自然であり、道後方面への河川断面を見ると、本当に以前はこちらが本流だったことに疑問を感じます。 つまりは、その功績が認められて、石手川の流れ着く川を重信川と名づけられたわけですから、相当の功績だと思います。(2005.05.07) |