愛 媛 の 散 策

 

松山の観光特攻隊!

 

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序章 観光都市松山の歩き方

 
いで湯と城と文学のまち松山へようこそ」松山の街を歩いていると、このようなキャッチフレーズをよく耳にすると思う。道後温泉は日本最古の温泉と言われ、およそ三千年の歴史があると言われているし、松山城は姫路城、和歌山城と並び日本三大連立式平山城と言われている。そして、文学といえば、正岡子規を頂点とする俳句の世界、夏目漱石が発表して百年が経った小説坊っちゃんなど、全国レベルと比較して決して劣らない観光地と言える。

四国とか松山という地名そのものは、地味なものなのだが、温泉というカテゴリで観光地を探せば、道後温泉が出てくると思う。そこで、先ほど述べたとおり「道後温泉は日本最古の温泉と言われ、およそ三千年の歴史がある」というフレーズに興味を抱き、その中で、夏目漱石の小説坊っちゃんが出てくる。そういうイメージで松山へやってこられる観光客も多いのではないだろうか。

そんな中、私がよく行く居酒屋「あじごよみ懐凪」のご主人から「観光で来られるお客様から、どこか(観光地の場所として)良いところはないだろうか」とよく聞かれるのだという話になった。この店は松山市繁華街のほぼ中心部に位置するビジネスホテルの一階にある。周囲にもビジネスホテルが何軒もある。道後温泉といえば、温泉にゆっくりと浸かって、そのまま道後温泉界隈で一夜を過ごす、というのが思い浮かぶ。が、実際には道後温泉本館には行くが、宿泊は市内中心部のビジネスホテルで・・・という方々も結構いらっしゃるようだ。そういう話を店のご主人としていたら、ではこの店を中心に見た松山のガイドブックを書いてみましょう、そして、この店に置いてくださいや、ということになった。

さて、かなり前置きが長くなったが、実は私自身が松山の観光に関して自分なりの意見を述べたかったものの、いざ執筆するとなると、いつものとおり「ホンニナル出版社」の通信販売ではシャレにもならないだろうと思っていた。これは渡りに舟と思い、書き上げてみることにした。

そこまでして、私が言いたかったこととは何か?それは、長男かずまると城北の「一草庵」散策をしていたときのことである。種田山頭火が人生の最期数ヶ月に住んだという「一草庵」の前には結構県外ナンバーの車が止まっている。そして、「一草庵ってこれですか?」とたずねられた。実際そのとおりなのであるが、多分「一草庵」というごくふつうの建物を見て、ある種の失望を味わっておられるのがよく判った。

松山の街は、最初に「地味なものなのだ」と書いたとおり、神戸の街や萩、津和野のような歩いただけで旅の思い出が残るようなところではない。だから、観光ガイドブックのとおりに周っていると、結局道後温泉に浸かったことしか記憶に無いということになるのではなかろうか。

実は、松山の街の正しい歩き方は、そこにかつて何があったのかを事前に予習しておいたうえで、そこを巡らなければ、結局何が何やら判らない、そんな街なのである。では、この店を出て、ホテルに帰った後、この本で予習をしてから、明日の松山散策の手引きにしていただければ幸いである。

 

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第1章 松山市中心部

 

1 松山城

 
1 大街道商店街

松山を案内するうえでは、本来ならば道後温泉から始めるべきなのだろうが、この観光ガイドブックの出発点が一番町界隈(厳密に言うと、八坂通りから勝山町の間の一番町筋)ということで、あえてここから案内することとする。

まず大街道商店街であるが、これは伊予鉄道市内電車で大街道電停を下車すると、アーケードがあるからすぐに判る。この大街道商店街は中央ドーム屋根方式で平成一三年にリニューアルし、道路幅員一五メートル、長さ約三一五メートルで松山一の繁華街となっている。

バスや電車などの交通機関は、伊予鉄道グループデパートのある松山市駅を中心に運転されているのだが、その伊予鉄道も四年前から金曜日の深夜にナイトバスを運転始めたときに、この大街道を中心としたダイヤを組んだ。いわゆる東西ではこの大街道から八坂通りを経て勝山町まで、南北では一番町から千舟町通りまでの一帯が松山市の大繁華街なのである。

一番町繁華街では、どの店がよいかというのはここでは省略する(一般のガイドブックをみてください。)が、やはり松山といえば魚料理を味わっていただきたい。

正岡子規も「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」と詠んでいる。子規は、闘病生活においても、結構食に対して貪欲だったという。ていれぎは清流に自生する緑色の水草で、辛味があって、刺し身のツマである。ミョウガのようなものか。それに三津の鯛が添えられているという意味である。

愛媛では鯛めしが有名なのだが、この鯛めしは松山以東の東中予と南予の宇和島付近では全く異なるものが出てくる。松山や今治で鯛めしといえば、炊き込みご飯がでてくるのだが、宇和島で鯛めしを注文すると鯛は刺身で卵汁のぶっかけご飯が出てくる。

2 ロープウェイ街

松山城への登山口はいくつかある。そのうち、大街道電停から北へ伸びる道をロープウェイ街というが、ここからの登山が一番楽ではある。その名のとおり、大街道交差点からロープウェイ乗場までは五分ほどの距離にあり、城の中腹までロープウェイ又はリフトで上がることができるし、一応歩いて登ることもできる。

松山城へのアプローチとしては、このロープウェイからが最も手軽であるが、頂上駅は長者が平であって、天守閣まではあと一〇分ほど歩くことになる。

あとの登山口は、県庁裏からの登山ルートがあるが、これは平成一三年の芸予地震以来、工事が続いていて、通れないときがある。そこから少し左手に回った二之丸からの登山口もある。ここには二之丸史跡庭園もある。往路ロープウェイを利用して、復路はこの道を降りて二之丸史跡庭園へ行くというのも良いかもしれない。二之丸史跡庭園から降りた場合は五分ほどで県庁前電停に行くことができる。

あと、城の北西方向からの若草町登山口もあるが、こちらは若干公共交通機関の便が悪い。

3 松山城

松山城の築城者は、賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で有名な七本槍の一人、加藤嘉明(かとうよしあき)である。嘉明が二五年(一六〇二〜一六二七)の歳月をかけて築いた松山城は、勝山山頂に本丸・中腹に二ノ丸・山麓に三ノ丸を整備した広大な規模の城郭であった。(松山市サイトから引用)

松山城は標高一三二メートルの勝山の山頂に位置しており、姫路城、和歌山城と並び日本三大連立式平山城と言われている。当初松山城は二つの峰を持つ山であったが、城を築くにあたり、頂上部を平らにしたと言われている。

加藤嘉明は賤ヶ岳などの戦功により、正木城(現松前町)六万石の大名として伊予の国へと赴任してきた。その後関ケ原などの戦功により二〇万石の大名に抜擢された際に、松山城へと城を移した。その際、加藤嘉明は勝山(現松山城)の他に二箇所ほど候補を挙げたといわれている。当時幕府は、このような場合、第二候補を選定していたといわれ、加藤嘉明は思惑どおりの場所に城を構えらしい。

この他の二箇所の候補というのは、御幸寺山と天山と言われている。御幸寺山は松山城の北の方向にある護国神社や一草庵の裏手にある、松山平野の中では珍しい岩山であり、一度見てしまうと案外松山市内のどこからでも見える山だということが判る。一方天山は南の方向、石手川のさらに南にある。こちらは天山、土器山、星岡山と三つの山があり、その向かって右手手前の高さ四九メートルの山がそれである。

その中で、勝山が最も城の候補地として優れていた点については、私の推測でしかないが、築城当時は、まだ情勢も安定してなく、いつ敵が攻めてくるかわからない状態だった。瀬戸内海に面する松山の場合、海上からの安全を考えると、やはりこの勝山が一番適しているように思える。天山の方が松山平野の中心部に位置しているのだが、勝山に築城後、防衛上北側の眺望が効かないという理由で、御幸寺山の頂上を削り取ったと言うことからも、加藤嘉明の幕府に対する策略の程が判ると思う。

天守閣へ入るためには、入場料を支払って入ることになる。天守閣からぐるりと四方を眺めてみて、防衛線としての松山城を考えてみるのも良いかもしれない。加藤嘉明が北からの侵入を気にしていたことは、北側の和気浜方面の道路がかつて「七曲がり」と言われていたことからも判る。姫原から潮見あたりまでを意図的に細くくねくねと曲げたため、進みにくかったと言う。ただし、これらの道は現存していない。そりゃそうだ。現在の都市にそんなものが残っていたら、渋滞が酷くなるだけである。気分だけでも、敵が攻めてきたことを味わってみようか。

 

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