愛 媛 の 散 策

 

松山の観光特攻隊!

 

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2 小説坊っちゃんの世界

 
@ 松山市駅

松山市内には、JRの他に伊予鉄道という私鉄の路線がある。しかも、いわゆる鉄道だけではなく、いまや全国的に少なくなった路面電車が走っているのである。それが、観光客輸送で成り立っているのではなく、地元の気軽な足としての機能を持っている。

この伊予鉄道は明治二一年一〇月に日本で最初の軽便鉄道として、松山、三津間六・八キロに蒸気機関車を走らせた。

一方、坊っちゃん列車という愛称が使われる元となった小説坊っちゃんの作者夏目漱石は明治二八年四月に松山中学に英語の教師として赴任してきた。その松山での約一年間の生活が小説坊っちゃんの舞台となっていることは有名である。平成一八年は小説坊っちゃんが出版されてちょうど百年の節目の年に当たる。

そこで、この夏目漱石の小説坊っちゃんを中心とした散策をしてみよう。なお、途中には俳都松山の中心人物である正岡子規らの足跡も一部巡ることになるかもしれない。

小説坊っちゃんの世界を巡るに当たって、ひとつだけ念押しをさせていただきたい。夏目漱石が明治二八年に松山の中学校に英語の教師として赴任してきたことは事実である。小説坊っちゃんは、夏目漱石そのものであったとは言わないが、そのときの体験が元になっていると言って過言ではあるまい。が、小説坊っちゃんを読めば判るが、松山の地名は全くといって出てこない。従って、夏目漱石の足取りを元に坊っちゃんの足取りを追っているということを念頭に入れていただきたい。

さて、坊っちゃんは三津に上陸してくるわけだが、一番町筋におられる方々に今から三津へ行けと言うわけにもいかないから、ここは後で巡ることにして、今は地図ででも確認していただきたい。三津に上陸した坊っちゃんは、いわゆる坊っちゃん列車で松山市駅へと降り立つ。そこから人力車で松山中学へとやってくる。

が、一番町筋からわざわざ松山市駅へ行くのも・・・とおっしゃられる方は、次の松山中学跡から先に行っていただきたい。

A 松山中学跡

乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ゴロゴロと五分ばかり走ったかと思うと、もう降りなければならない。(中略)それから車をやとって、中学校へ来たら、もう放課後でだれもいない。宿直はちょっと用たしに出たと小使が教えた。ずいぶん気楽な宿直がいるものだ。校長でも尋ねようかと思ったが、くたびれたから、車に乗って宿屋へ連れて行けと車夫に言いつけた。車夫は威勢よく山城屋といううちへ横づけにした。山城屋とは質屋の勘太郎の屋号と同じだからちょっと面白く思った。(小説「坊っちゃん」から抜粋)

ここでいう松山中学は現在の西日本電信電話株式会社四国支社の西側にある。大街道から県庁前電停下車、松山市駅から市役所前電停下車すぐである。愛媛県庁本館の建物が目立つだろうから、その前にある交差点のまん前にある建物である。横断歩道を渡ればすぐにある堀側に向いて碑が建てられている。松山市文化財課「俳句の里巡り・城下コース二番」となっている。

それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してやろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。県庁も見た。古い前世紀の建築である。(小説「坊っちゃん」から抜粋)

これは、坊っちゃんが最初に学校にやってきた翌日の初出勤した日の帰りのことである。県庁は当時もそこにあった。なのに「県庁も見た」はないだろうと思う。第一おまえは昨日ここにやってきて、県庁が見えなかったのか!ということになる。作者夏目漱石は一体何を言わんとしているのか、しばし考えてみるのも良いかもしれない。

Bきどや旅館

西日本電信電話株式会社四国支社を東方向(大街道方向)へ二つ目の路地を南へと向かうと、番町小学校の正門へと出て、松風会の句碑がある。そのまままっすぐ南下すると、番町小学校と別れるとすぐ、三番町通りに出るまでにきどや旅館へと行き着く。「ビストロきどや」という看板があるからすぐに判ると思う。

松山市文化財課「俳句の里巡り・城下コース四番」。

C河東碧梧桐誕生地(静渓邸の跡)

ここからは、直接坊っちゃんとは関係がないが、松山を語るうえで重要なポイントを二つほど。

さきほどの「きどや旅館」で曲がらずに、そのまま南下していくと、河東碧梧桐誕生地(静渓邸の跡)がある。

松山市文化財課「俳句の里巡り・城下コース五番」、河東碧梧桐は明治六年にここで生まれている。後に正岡子規の後継者となるが、彼の作風は新傾向俳句で、更に五七五にとらわれない自由律で、しだいに保守的イメージの高浜虚子と対立していく。

ちなみに、彼が一七歳の時に子規がここへやってきて、彼とキャッチボールをしたという。正岡子規が野球殿堂入りした今、ここが日本における野球発祥の地かもしれない

D大原観山邸跡

河東碧梧桐誕生地の碑から東へと歩いて、二車線の道路へ出たところにある。俳句の里巡り・城下コース六番」。

大原観山は本名有恒で加藤家の次男として三津御舟手加藤重孝の次男として出生した。姉艶枝が嫁いだ大原恒固との間に子供がなかったため、観山が養子となった。大原観山と妻重との間にできた長女八重が正岡家へ嫁いで正岡子規を生んだ。そう書けば正岡子規の生誕は偶然のように思われるが、生誕に関しては人皆偶然だと思う。

E夏目漱石寓居・愚陀仏庵の跡

大原観山邸跡から少々東(大街道方面)へ歩いて、三越松山店の西筋の道を北(松山城方向)へ歩いて、料亭天平前に碑がある。「俳句の里巡り・城下コース七番」。

夏目漱石は明治二八年四月から一年足らずの間に松山で過ごしたが、きどや旅館に泊まった後は、現在の萬翠荘の近くにある下宿「愛松亭」に移って、さらにこの場所にあった上野家に落ち着いた。漱石は愚陀仏を自らの別号としており、この場所を愚陀仏庵と名づけて住んでいた。

そこへ従軍吐血して療養後の正岡子規が転がり込んで、五二日間二人が過ごしたということはあまりに有名である。その間、子規は漱石の部屋を占領したため、漱石は二階に移ったが、子規は毎夜友人等を集めて語らったという。

F萬翠荘

愚陀仏庵跡からまっすぐ一番町を横切り、そのまま城山方向への坂を登っていくとある。ただし、一番町は交通量が多いので、東西にある信号を渡ったほうが安全である。

この萬翠荘までには、「俳句の里巡り・城下コース」の句碑が多くある。

(萬翠荘へ入口)

「俳句の里巡り・城下コース一〇番」 夏目漱石の書簡碑

「俳句の里巡り・城下コース一一番」 夏目漱石ゆかりの愛松亭跡

さきほどの愚陀仏庵跡で述べた下宿「愛松亭」がこのあたりだったという。

(萬翠荘への途中)

八番 城山や筍のびし垣の上(柳原極堂)

九番 なつかしき父の故郷月もよし(高浜年尾)

現在、萬翠荘への途中に松山市が『坂の上の雲』フィールドミュージアムを建設している。現在のところ平成二〇年頃に二一世紀大河ドラマとして一回七五分を二〇回程度のドラマとして製作中であり、それに備えての箱物を造っているのだろう。

(萬翠荘の裏山)

一二番 秋晴の城山を見てまづ嬉し(今井つる女)

萬翠荘は、大正一一年(一九二二)旧松山藩主松平家一五代当主、久松定謨伯爵が別邸として建てたフランス風の建物である。昭和五四年からは県立美術館分館となっている。

さらにその奥に、先ほどの愚陀仏庵を再現した建物がある。中では時折お茶会なども催されている。

 

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3 秋山兄弟

 
@「坂の上の雲」

「坂の上の雲」は昭和四三年から四年三か月に渡って産経新聞に連載された作品で、司馬遼太郎が日露戦争の時代を描いたものである。秋山兄弟らが松山出身であることから、現在の松山市長が就任当初から「坂の上の雲」の街づくりを提唱した。司馬遼太郎が映像化に否定的であったのを、死後に著作権継承者である夫人の許可を得たというから、あるいは市長自らが動いたのかもしれない。

A秋山好古

一八五九年に秋山久敬の三男として松山に生まれる。日清戦争、日露戦争に従軍し、「日本騎兵の父」とも呼ばれた。

一九二三年退役し、翌年北予中学校長(現在の松山北高校)に就任する。退役陸軍大将の校長就任は異例であったが、本人の希望だったという。

一九三〇年校長を退き、同年永眠。道後の鷺谷墓地に眠る。

B秋山真之

一八六八年に秋山久敬の五男として松山に生まれる。一九〇三年からの日露戦争では、司令長官東郷平八郎の下で作戦参謀となり、第一艦隊旗艦三笠に乗艦する。バルチック艦隊と一戦における「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」があまりにも有名である。

彼としては、この戦いで海軍のカリスマ的存在となるが、その後は歴史の表舞台に出ることはあまりなく、晩年には腹膜炎を煩い、小田原の山下汽船社長宅で療養。一九一八年に四九歳で死去。

C秋山兄弟生誕地

秋山兄弟生誕地を復元したもので、大街道からロープウェイ街を少々北東に行ったところにある。平成一七年一月一九日から公開をしており、秋山兄弟に関する展示をしている。

ただ、あくまで生誕地を復元したものであり、規模もそんなには大きいものではない。色々な本などで秋山兄弟に関する知識を持ったうえで訪れなければ、わざわざ観光にやってきた方々としては物足りないだろうと思う。

実際、この施設が公開された当初は結構観光客の話題に上り、信号待ちをしていた坊っちゃん列車の車掌から、この施設の場所を聞かれたことがある。

C梅津寺での秋山兄弟

梅が香やおまへとあしの子規真之(酒井黙禅)梅津寺(松山市梅津寺町)

松山市内からは少々離れるが、この碑が「俳句の里巡り・城北コース八番」である。梅津寺パークの駐車場より松山側に小高い丘がある。ちょうど県道をオーバークロスする歩道があるからすぐに判る。これを梅津寺側から登って県道を越すと、秋山兄弟の像がある。

また、そこからさらに山の頂上をめざすと、山頂に展望台がある。この展望台はあまり眺望は開けず、手入れもされているとは思えないが、ここに日露戦争に関する資料が置かれている。あまり保存状態もよくないので、早急に秋山兄弟生誕地にでも移して保存すべきだと思う。

なお、句をみれば判ると思うが、「子規真之」は「しきしんし」と詠み、正岡子規、秋山真之をさす。

 

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