松山の観光特攻隊! |
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4 正岡子規 |
@正岡子規生い立ちの家跡 松山市湊町三丁目の中の川筋緑地帯にある。 今回は、小説坊っちゃんの世界の中で寄道をした「大原観山邸跡」を基点として、ここからまっすぐに南へと歩き、アーケードのある銀天街を越えて、片側三車線の中の川通りまで出る。この中の川筋緑地帯に「俳句の里巡り・城下コース二七番」の碑がある。 松山市教育委員会によると、場所を示すものですから、ということなのだろうが、片側三車線の道路の中央分離帯の中に碑があり、訪れるには覚悟がいる。 かような訳で、私はここへ行ったときに「秋の川過去に触れるも命がけ」と詠んでしまった。 正岡子規はこの場所に一七歳まで住んでいた。後で述べる「正宗寺」には、その一七歳の子規が旅立つ姿の像がある。なお、この北隣に高浜虚子の生家があったという。ただ、その後、高浜虚子は何度か引っ越した後、松山市一番町一丁目(ホテルトップインと松山ワシントンホテルのちょうど中間にある「アメニティ松山」の隣で「俳句の里巡り・城下コース一八番」の碑がある)に住んでいたようで、元々正岡子規と隣同士だったにもかかわらず、ここに住んでいた時に正岡子規を河東碧悟桐に紹介してもらっている。 A正岡子規母堂令妹邸跡 松山市湊町四丁目の同じく中の川筋緑地帯で、さきほどの「正岡子規生い立ちの家跡」から西方向(松山市駅方向)へ歩くとある。「俳句の里巡り・城下コース二八番」の碑があるのだが、ここも訪れるには命がけになる。 B蓮福寺 松山市柳井町三丁目。正岡子規母堂令妹邸跡から少し西方向(松山市駅方向)へ歩くと、道路の南側にある。 正岡子規は明治二八年に発病、療養後、八月二五日に松山へ帰省し、同年四月に松山へ英語教師として赴任していた夏目漱石の愚陀仏庵に転がり込んだ。そして、松山を離れる一〇月一八日(出港したのは翌朝)までそこに住みついたのだが、その九月二〇日から一〇月九日までの間に五回松山市内を散策して、その内容を「散策集」に納めている。 その三回目の一〇月二日に市内南部石手川堤紀がある。愚陀仏庵からまっすぐ南下して、中の川通りを抜けて浦屋雲林邸へ行っているのだが、その時にわざわざ蓮福寺へ寄って、「朝顔や裏這ひまはる八軒家」「真宗の伽藍いかめし稲の花」(いずれも子規)と詠んでいるのである。 この「わざわざ」というのは、次の子規ゆかりの場所である「法龍寺」がすぐ西側にあるにもかかわらず、蓮福寺に立ち寄った後、法龍寺に寄らずに、浦屋雲林邸へ行っているのである。 この日の散策集を読んでいると、妙に「鼻血」とか「一滴」とかいう言葉が出てくる。松山へは病気療養で帰省したのであるが、これが子規の最後の故郷松山でもあった。子規の胸の内を思い浮かべながら、蓮福寺へ立ち寄った理由を想像してみるのも良いかもしれない。 なお、この蓮福寺のすぐ西側にある南へと続く道が「八軒家通り」と言われていたらしい。 C法龍寺 松山市柳井町三丁目で、蓮福寺から少し西へ向かうとすぐに見えてくる。「俳句の里巡り・城下コース三七番」の碑がある。 この法龍寺は現在幼稚園を兼ねているのだが、元々「末広学校」という小学校であり、正岡子規もここで学んでいたのだという。 また、ここのもうひとつの碑は「正岡家墓地跡」とある。ここには昭和二年まで墓があり、その後は次に述べる「正宗寺」に移されたのだそうだ。 D正宗寺(子規堂) 松山市末広町にある。法龍寺からさらに西へ向かい、松山市駅の手前から南へ向かうとすぐにある。休日は狭い敷地に結構観光バスや定期観光バスが行き交う。 「坊っちゃん列車客車」 正宗寺に入っていくと、否応無しに見ることができる。これはかつて本当に走っていた坊っちゃん列車の「ハ一」型客車であり、引退後、伊予鉄道が寄贈したもの。 松山市内を走っている坊っちゃん列車の客車と、特に下回りを見れば、現在走っている坊っちゃん列車の安全性の確保に関する苦心が見える。それは、あとで述べることにする。 この客車の中は、ちょっとした展示場になっており、色々な小物の展示に加え、明治時代の時刻表もあるし、なんといっても、小説坊っちゃんの記載について、「これは小説としての面白さをねらったもので、実際には二八分で走っており、運賃も三銭五厘でした。」と書かれているので一読をお勧めしたい。 ちなみに、客車の前に夏目漱石の像があるが、なんとなく晒し者になった生首のような気がしないでもない。 「俳句の里巡り・城下コース三二番」 正岡氏累代墓 正岡子規の両親も眠る正岡氏累代の墓である。 子規居士髪塔の裏面には「明治三七年九月一九日樹」と書いてある。つまり、子規没後三周忌に建てられたということになる。 「俳句の里巡り・城下コース三三番」 子規居士髪塔、鳴雪先生髯塔 子規堂の前に「旅立ち」と子規が旅立つ姿の像があるが、これはまさに子規が一七歳の時に松山市湊町三丁目の中の川筋緑地帯にあった自宅から出発した姿なのである。 まさにあれである。あの子規の姿は本当は中の実はここでなされたものだ。 「俳句の里巡り・城下コース三六番」朝寒やたのもとひゞく内玄関(正岡子規) 正岡子規は明治二八年九月から一〇月にかけて、松山市内を五回散策している。その五回目に今出の村上霽月を訪ねていくときに立ち寄ったものである。ここで、住職で俳人の一宿和尚を誘ったが、所用のため断られている。 E正岡子規誕生地 松山市駅から南堀端へ北上する間にあり、「俳句の里巡り・城下コース四〇番」となっている。 ちょうど、アーケードの中にあり、最初はお墓かと思った。 正岡子規の出生場所は、伊予国温泉郡藤原新町とあり、後の松山市新玉町一丁目八番九番地、現花園町三番五号とある。現在の新玉小学校はかなり西へ移っている。また、私が以前住んでいた宮田町も新玉校区だったため、新玉といえばどうしても、現在のコミュニティセンターと大手町を中心とした場所という気がする。が、そういえば、唯一新玉と呼ぶ地名がある。コムスの隣にある新玉公園である。そういう気でいたから、なんでここが新玉公園?と思ったものである。かつての新玉はもっと東側の意味を持っていたようである。 |