松山の観光特攻隊! |
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第三章 道後温泉界隈 |
一 道後温泉駅周辺 |
さて、このガイドブックは通常のものと違って、大街道から勝山町界隈に宿泊した人々が翌日午後に松山を出発することを想定して、午前中に回れる観光案内をしてきたわけであるが、もし、あと一日余裕があるならば、また、明日道後温泉に行くというのならば、という観点から、道後温泉界隈の案内をしていきたいと思う。 ただ、道後温泉に関する情報は、通常のパンフレットの方が詳しいと思われるので、なるべくパンフレットに書かれていないようなことを中心に述べたいと思う。 @道後温泉 道後温泉の紹介は、一言で言えば、坊っちゃん列車の中で次のとおり紹介されるとおりである。 「まもなく終点の道後温泉です。この道後温泉は日本最古の温泉で、およそ三千年の歴史があるといわれ、一年を通じて観光客の絶え間がありません。温泉は日本全国いたるところにありますが、この道後温泉は全国で唯ひとつ、天皇皇族専用のお湯殿の又新殿(ゆうしんでん)があります。本日は坊っちゃん列車にご乗車いただきまことにありがとうございました。」 A道後温泉駅 道後温泉行きの市内電車に乗って、終点道後温泉駅に着くと、そこにはレトロな駅舎がある。これは、明治時代の駅舎を復元したものである。ただ、明治時代の道後温泉駅は、電車(当初は列車)は現在とは逆方向へと出発していった。また、昭和二年までは、複線になっていて、左方向は現在の大街道へ、右方向は現在の古町方向へと伸びていたという。 さらに、明治四四年には、道後温泉から一番町へ抜けて、三津港までを結ぶ「松山電気軌道」という会社が、伊予鉄道の道後温泉駅の隣に駅舎を構え、双方で壮絶な客引き合戦が行われたという。松山電気軌道は現在の市内電車が出発する方向へ、伊予鉄道は現在とは逆方向へと出発し、上一万電停の道後側にある信号付近で立体交差し、一番町へと向っていたという。 その過当競争も、大正一〇年に伊予鉄道が松山電気軌道を吸収することで決着し、一番町から道後温泉までと一番町から本町三丁目までは、当時の松山電気軌道の路線が概ね継承され、古町から三津までの松山電気軌道は廃止され、現在はそのほとんどが道路の一部となった。 Bからくり時計 道後温泉駅前にある小さな公園は、もともとは放生園という松山藩主によって造られた御手洗川の水を引き入れた池だったという。この御手洗川は小説坊っちゃんの中では、野芹川と称された川ではないかと思われるのだが、御手洗川は道後のアーケードの下を流れている。 その公園の中に、ひとつのからくり時計がある。通常一時間ごと、オンシーズンは三〇分ごとに時計の中から、小説坊っちゃんの登場人物達が飛び出てくる。 このからくり時計の値段は約七千万円というが、これは例の竹下内閣でばらまかれた「一億円」で造られたという。 C足湯 からくり時計の隣にあるのが最も判りやすいが、道後温泉界隈のホテルの外にも無料で浸かれる足湯をよく見かける。中には、ホテルの喫茶で珈琲などを飲みながら足湯に浸かれるところもある。 |
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二 道後温泉本館 これぞ、三百円で入れる、国の重要文化財である。 伊佐庭如矢は明治二三年に道後町の初代町長となり、三期一二年勤めたが、明治二七年に道後温泉本館落成した。道後温泉本館建設にあたっては、その計画に反対した者も多かったというが、おかげで現在の道後温泉がある。 また、彼が町長の時代には、翌二八年に一番町〜道後温泉〜三津口の道後鉄道が開通している。また、当時河野家の廃城跡で荒れていた道後公園を整備したりもしている。 三 鷺谷墓地 道後温泉本館からホテル街の坂を登っていくとある。 現在は「道後村めぐり」の三番として、スタンプが添えられている。「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠んだ中村草田男、初代道後町長の伊佐庭如矢、秋山好古らが眠っている。 四 道後ぎやまんの庭 道後温泉本館からホテル街の坂を登って、鷺谷墓地で曲がらずにずっと登っていくとある。 日本独自の美を持ったびいどろ・ぎやまんを、江戸・明治・大正の時代別に展示している。 |