愛 媛 の 散 策

 

松山の観光特攻隊!

 

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第三章 道後温泉界隈

 
 五 正岡子規散策集道後編

正岡子規は明治二八年に発病、療養後、八月二五日に松山へ帰省し、同年四月に松山へ英語教師として赴任していた夏目漱石の愚陀仏庵に転がり込んだ。そして、松山を離れる一〇月一八日(出港したのは翌朝)までそこに住みついたのだが、その九月二〇日から一〇月九日までの間に五回松山市内を散策して、その内容を「散策集」に納めている。

その散策の内容であるが、次のとおりになっている。

一回目:九月二〇日 石手寺紀行

二回目:九月二一日 御幸寺山紀行

三回目:一〇月二日 市内南部石手川堤紀行

四回目:一〇月六日 道後鉄道に乗って道後温泉

五回目:一〇月七日 今出の村上霽月邸訪問

つまり、四回目として、この道後温泉界隈を巡っているわけだが、その内容に従って巡ってみることにしよう。

子規は一〇月六日に夏目漱石と道後温泉へ出かけて、大街道で狂言を見て帰っている。

散策集の中では二人が汽車で出かけたとは述べられていないが、愛媛大学図書館サイトによると「道後鉄道に乗り」と書かれている。道後鉄道はこの年の八月に一番町〜道後温泉間が開通している。子規も句の中で鉄道に関することが出てくるし、漱石にいたっては小説坊っちゃんの中で列車に関する表現が百年を経た今でも語り継がれているのは周知の事実である。まあ、当時の様子を見れば、鉄道は文明の利器の先端のようなものだから、自然と出てきたとしてもおかしくはないだろうし、別に子規と漱石の「鉄道オタク」度を述べるつもりもない。

道後についた二人は、「温泉楼上眺望」「鷺谷に向ふ」とあるので、多分道後温泉の脇から坂を登って鷺谷へと向かったのであろう。この鷺谷墓地は秋山好古や伊佐庭如矢等の偉人が永眠しているが、当時彼等はまだ現役だった。

子規と漱石は鷺谷から宝厳寺へと向かうが、多分山裾をぶらぶらしながら歩いたのだろう。私も多分二人が歩いたであろうと思われる道を何度か歩いたが、決まって犬に吼えられる。

色里や 十歩はなれて 秋のかぜ(子規)

句碑は宝厳寺の中にある。「道後村めぐり」や「俳句の里巡り」でも巡ることになる。一遍上人誕生の地ということでも有名だが、その下に広がったであろう色里、通称「ネオン坂」はたぶん当時の面影も失せているのであろう。

この後、子規と漱石がどのようなルートで一番町まで帰ったかは知る由もないが、色里巡りの代わりに大街道で狂言を見て帰っている。

 六 湯築城跡

湯築城は市内電車で、道後温泉のひとつ手前、道後公園前付近で右手に見え、鎌倉時代から戦国時代にかけてこの地を治めていた河野家の居城である。

最終的に豊臣秀吉によって河野氏は滅亡し、その後は松山城築城のための資材にあてられたといわれている。

現在、湯築城跡は当時の状態に復元されて、資料館となっている。ここで何時間もというわけにはいかないが、城跡を登っていって、往時を偲ぶのがよいだろう。

ちなみに、現在の資料館付近は、かつては道後動物園があったところである。

 

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