松山の観光特攻隊! |
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第三章 道後温泉界隈 |
七 道後村めぐりと石手寺 |
道後温泉界隈はガイドブックを片手に見て周るのではなく、歴史を感じながら巡るものであると述べたが、それには「道後村めぐり」という方法がある。これは、「道後村めぐり協議会」が運営し、スタンプ帳を片手に合計三〇箇所のスタンプを押して周るものである。 道後温泉駅前、からくり時計の隣の建物の中にある観光案内所で二五〇円だして、スタンプ帳を求める。ここでは道後温泉界隈で簡単に回れる一八箇所を紹介する。早ければ一時間、ゆっくり回っても二時間あれば十分に回れるコースである。 @ 一三番 放生園 春風やふね伊予に寄りて道後の湯(柳原極堂) からくり時計の前にある。先ほども述べたとおり、この放生園は松山藩主によって造られた御手洗川の水を引き入れた池で、付近を流れる御手洗川は小説坊っちゃんの中では、野芹川と称されていたと思われる。 ここは、ひとつ赤シャツとマドンナが肩を並べて歩いているシーンを思い浮かべようか。 A 一二番 道後温泉駅 古町木屋町打ち過ぎて行けば道後の温泉場(大和田建樹) ご存知、伊予鉄道の駅で、坊っちゃん列車の始発、終着駅である。 なお、大和田建樹といえば、ご存知鉄道唱歌を作った人であり、宇和島市出身である。現在道後温泉駅では、彼の作詞した伊予鉄道唱歌を流している。 B 二番 道後温泉椿の湯 日月照於上而不私神井出於下無不給(聖徳太子) 道後温泉駅前から、アーケードを入って、アーケードが右へと折れ曲がる場所にある。 伊予国風土記逸文の中でこの聖徳太子の碑文のことが記されており、日本最古の金石文といわれている。しかし、伊佐爾波神社に埋めたとか神社自身かつては湯築城付近にあって、築城のため移転したと言われ、現在まで発見されていないという。 C 一番 道後温泉本館 伊予の湯に汀にたてる霊の石これそ神代のしるし成ける(古歌) 内容は、さきほど述べたとおり。堂々一番に指名されている。 D 三番 鷺谷墓地 降る雪や明治は遠くなりにけり(中村草田男) 道後温泉本館から、坂道を上っていくとある。これも、さきほど述べたとおり。 E 四番 円満寺 散と見し幻消て花に月(奥平鶯居) 鷺谷墓地から、山の中腹を伊佐爾波神社方向へ歩くと、途中坂の下にある。少し見つけにくいが、この方法が一番早い。 大地蔵は道後温泉に来た僧行基が楠の大木に彫ったものと伝えられている。この句碑は梅滴(鶯居の俳号)翁の墓の裏面にあるらしい。 F 五番 宝厳寺 色里や十歩はなれて秋の風(正岡子規) 元の山の中腹に戻って、ネオン坂との交差点にある。 時宗の開祖一遍上人誕生地。この句にも「色」がある。これは色づく木々とネオン坂の色とをかけたものだが、後ろに「秋の風」がある。単に「色」だけでは季語ではないようだ。 G 六番 伊佐爾波神社 栗の花こぼれて居るや神輿部屋(河東碧梧桐) 道後温泉駅から東の山を見ると、とてつもない長い石段が見える。この石段の上にあるのだが、宝厳寺側からやってくると、案外簡単にやってくることができる。 湯築城の鎮守神として河野氏の崇敬を受けた。ちなみに、ここのトイレもよく整備されているので(実際整備しているのをよく見かける)、散策中大変重宝させてもらっている。 H 一七番 風土記の丘 薫風や風土記の丘をかくてなほ(富田狸通) 伊佐爾波神社から宝厳寺と逆の方向へ行くと、テニスコートが見えてくる。そこから低い峠を越えて石手寺へと下ったところにある。ちなみに、山道を越えて、アスファルト舗装の道になったところで、(右手)南方向へと分かれて、山を登っていく細い道があるが、これを行くと、愛宕山の山頂へとたどり着くことができ、さらに反対側へと下ると、石手寺の中に出る。 風土記の丘については、伊予国風土記逸文の中でこの聖徳太子の碑文のことが記されている。「湯の岡側に碑文を立て,その立てた所を伊社爾波の岡」と詠んでいるのだが、かつての伊社爾波神社は湯築城付近にあったというから、風土記の丘ということから、このあたりに「聖徳太子の碑文」が隠されているのかもしれないし、ひょっとすると、ここは風土記の丘ではないというのかもしれない。 I 一五番 石手寺 鎌倉のむかしを今に寺の鐘(前田伍健) ここの句碑になっている前田伍健は、明治二二年坂出市に生まれ伊予鉄道に入社、野球拳の開祖として名をはせている。が、石手寺には計九八碑があるといわれている。その中で選ばれたのだからすごい。 四国八十八箇所五一番札所石手寺の説明は、特にここで述べるまでもないだろう。 石手寺という名前の由来は、弘法大師と昔伊予の国浮穴郡荏原村にいた「右衛門三郎」と言う欲深い長者との物語から来ている。ある日托鉢の僧を弘法大師と知らずに、彼の托鉢を投げつけたところ鉢は八つに割れた。その後八人の子が次々に死に、三郎は改心し四国巡拝に旅立つ。 J 一七番 岩堰 鮎寄せの堰音涼し宝川(酒井黙禅) 酒井黙禅は松山赤十字病院の名誉院長である。同病院の正面玄関近くには、「春風や博愛乃道一筋仁(酒井黙禅)」という句碑があるが、そのほかにも、彼の句碑が松山市内いたるところにある。 さて、石手寺からさらに上流へと行くと、石手寺を越えるところで、少し下流へと行ったところに赤い吊橋が見える。 この岩堰は、松山城を築城した加藤嘉明の臣下足立重信が石手川の流れを変える工事をしたことで有名である。道後温泉方面へと流れる御手洗川の水量を調整するために、現在の石手川方向へ水路を切り開き、水路という守りと松山市内の治水事業に貢献したというものである。 実際にはどういう工事をしたかであるが、当時の石手川はこの岩堰から湯渡橋付近までは明確な水路を持たず、大雨のたびに氾濫を繰り返していたようである。そして、城の南側、つまり現在の二番町あたりを流れて、松山空港方面へと流れていたといわれている。そのような暴れ川に近い石手川の河川工事をしたものといわれている。 K 一九番 へんろ橋 霞む日や巡礼親子二人なり(夏目漱石) 岩堰から石手川沿いに下ってくると、県道橋のところにある。この橋がへんろ橋と言われるのは、この県道四○号松山東環状線を南方面に進むと、五〇番繁多寺、四九番浄土寺、四八番西林寺、四七番八坂寺、四六番浄瑠璃寺と行くことができる。また、逆方向に向うと、少々遠回りにはなるが、松山城北方面で五三番円明寺、五二番太山寺の近くへと続いている。 なお、一八番東野御茶屋跡が残されるが、ここだけがあまりに遠いので、時間があった場合に行くとよいと思う。 L 一六番義安寺 このほたる田ごとの月をくらべ見ん(松尾芭蕉) 義安寺には豊臣秀吉の四国征伐で敗れた河野家の家臣が、本堂の側にある誓いの泉で自刃し、源氏蛍となったと言う伝説がある。 松尾芭蕉は実際には松山へは来なかったのであるが、彼の影響は大きいようで、松山市内いたるところに松尾芭蕉の句碑が見られる。 石手寺から、県道沿いに道後温泉方面へと戻ることになる。なぜか、道後温泉方面行きのみ義安寺前というバス停がある。 M 湯神社 道後なる湯の大神の御社のもとにぬる夜となりにけるかな(与謝野晶子) 湯神社は伊佐爾波神社からまっすぐに道後温泉駅へと下ってくるとあるのだが、行程上、義安寺から来る場合は、一度伊佐爾波神社の方向へと迂回することになる。ただ、それでも、伊佐爾波神社の石段を上り下りするよりはマシと思う。 道後温泉の守り神として、大国主命と少彦名命が祀られ、昔から道後の湯が止まると、ここで湯祈祷が行なわれていた。なお、この後ろにある中嶋神社は兵庫県にあるお菓子の神様の分家で、その方面の方々の名前がずらりと並んでいる。 N 八番 子規記念博物館 足なへの病いゆとふ伊豫の湯に飛びても行かな鷺にあらせば(正岡子規) 湯神社から坂道を下って、道後温泉本館へ行く道と合流するところで、再び県道沿いに戻ってくる。 ここは以前、波多野晋平の句碑になっていた。なぜ子規ではないの?と思っていたら、最近になって正岡子規に変更された。鷺といえば、道後温泉の由来を意味する。足に傷を負った鷺が温泉で癒しているのを見て、その湯に何か効用があるのかと思って、同じようにしたところ、色々な病が治ったという話は有名である。これらのことを含め、道後温泉が日本最古の温泉とされている。この句は、正岡子規が晩年病のため、歩くことができなくなったことから、鷺のように道後温泉で癒したいとした句である。 O 九番 道後公園 ふゆ枯れや鏡にうつる雲の影(正岡子規)、半鐘と並んで高き冬木哉(夏目漱石) 子規記念博物館前にある。ここは桜の名所であり、春にははっきり言って、昼間でも酒の臭いが気になるところである。 P 一〇番 湯釜薬師 寝ころんで蝶泊まらせる外湯哉(小林一茶) 小林一茶といえば貧困のイメージがあるのだが、彼は二度ほど松山へやってきており、古町方面にある庚申庵を建てた栗田樗堂を小林一茶が訪ねてきたとされている。 湯釜薬師は道後温泉本館の湯釜で、現存する最古のものは 奈良時代の天平勝寶年間(七四一〜七五七)に造られて以来、 明治二七年に新しい湯釜が据え付けられるまで使用されていた。 Q 一一番 湯築城跡 温泉をむすぶ誓も同じ石清水(松尾芭蕉) 湯築城後は先ほど述べたとおり。かつての道後村めぐりの冊子は頂上にスタンプがあるようになっていて、一瞬山を登るのかと思ったが、実際には管理事務所のところにある。 |