松山の観光特攻隊! |
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第三章 道後温泉界隈 |
八 道後温泉旅館街と句碑巡り |
道後温泉は、その名のとおり温泉街がある。温泉街のホテルといえば、湯に浸かって、温泉歓楽街で・・・という印象があるが、この道後温泉は、さすがに文学の街と言われるだけあって、温泉ホテルの前にも句碑があったりする。 それを紹介することにしよう。 @ ふなや旅館(道後湯之町) はじめてのふなや泊りをしぐれけ里(夏目漱石)道後湯之町ふなや旅館 道後温泉駅前から伊佐爾波神社へ向う坂の途中にある。 この旅館は多分中庭にあるであろう句碑を含めて四碑あるのだが、この碑だけを外に出して、他は外からは見えないようにしている。さすがは、皇室が松山にやってきたときに泊まる旅館だけはあって、なんともいえない威厳を感じさせる。 A 大和屋ホテル本店(道後湯之町) ずんふり湯の中の顔と顔笑ふ(種田山頭火) 足なへの病ゆとふ伊予の湯に飛びても行かな鷺尓あらませ者(正岡子規) 漱石が来て虚子来て大三十日(正岡子規) 大和屋ホテル本店は道後温泉本館から坂を登っていく途中にある。 最近道後温泉では足湯が流行っており、ホテルでも無料で足湯がてきるスペースを設けたり、足湯をしながら喫茶を楽しめるところもある。このホテルも入口横に足湯のスペースがあり、その近くに三碑がある。そのうち、「足なへの・・・」の句は、最近リニューアルした「道後村めぐり」の八番子規記念博物館の句碑として採用されることになった。 B 宝荘ホテル(道後鷺谷町) 地の底に出湯の流れ山粧ふ(吉野義子) 永き日やあくびうつして分連行く(夏目漱石) さきほどのホテルから、更に坂を登り詰めたところにある。 吉野義子は大正四年七月一三日愛媛県生、社団法人俳人協会名誉会員になっている。また、子規顕彰全国俳句大会の平成六年、九年応募句選者としても名前がある。子規顕彰全国俳句大会は正岡子規の生誕百年を記念して、昭和四一年から始まり、毎年正岡子規の命日にちなんだ九月に開催している。 C 椿館別館(道後鷺谷) 陽炎や苔にもならぬ玉の石(正岡子規) 宝荘ホテルの隣にある。 このように、句碑がほとんど道後温泉郷の旅館ホテルの看板と化している。 D 愛媛文教会館内庭(祝谷町一丁目) 松尓菊古きはものゝなつ可しき(正岡子規) 祝谷のバス停の右手(北側)から、山手の方へ少々歩けば、看板が見える。 ただし、建物の前にはない。私の場合は、思い切って、ちょうどでてきた事務の人に尋ねたら、内庭にあるので案内するから見ていってくださいといわれた。少々恐縮して見せてもらったが、愛媛教育雑誌百号の祝いとしての碑で、「俳句の里巡り・道後コース十番」と書かれている。 E 二九番 常信寺 色鳥のいろこぼれけりむら紅葉(黒田青菱) 愛媛文教会館まで来れば、すぐ近くであるので、道後温泉周辺から外した「道後村めぐり」を続けてみよう。 愛媛文教会館を更に奥へ行ってから、左手(西側)へ細い道を一度下ると、常信寺の前に出る。 松山藩主が鬼門の鎮護のために建てた天台宗の寺。句碑は寺内にある。「色鳥」は秋渡って来る、美しい羽色の鳥のことだが、「色」から秋が想像できるからこれが秋の季語と松山市教育委員会のサイトには書かれている。が、それなら「紅葉」もそうだから、季語が重なっていることになる。 ここから、「道後村めぐり」最大のハイライト「瀬戸風峠」は徒歩で約一時間。時間と体力がある方はどうぞ。写真だけ載せておきます。 F 二八番 松山神社 常信寺のスタンプを押して、左手(西側)の階段を登って、お墓の裏手にある山道を上れば、ほどなく松山神社に到着する。 菅原道真を祀る社と徳川家康を祀る東照宮を合わせた神社。句碑は参道の階段途中にある。「句碑のある松山神社は、明和二年(一七六五)三月、道後の湯月八幡宮(今の伊佐爾波神社)の山祠を、久松定静公が、この田高の岡に移し、徳川家康を祀って「東照宮」と称し、松山城東北の鎮めの神社としていたが、明治四三年(一九一〇)一二月、御幸寺山麓の天満宮をこの地にうつして、この社に、菅原道真公をも合祀して以来、「松山神社」と称し、祝谷地区の氏神さまとなっている。(松山市教育委員会のサイトから抜粋)」というから、「松山」という地名が入っていることへの疑問が解けた。そういう紆余曲折があった神社なのだ。 G 松山神社参道下(道後多幸町) 神木唐楓さ庭に風媒畏しや(酒井黙禅) 田高庵酒井黙禅旧居月盈虧田高の屋の眺めか奈(酒井黙禅) 松山神社から参道を下って、道後温泉駅へと向うとすぐに左手(東側)にある。 この道はまさに松山神社口バス停から松山神社へと向かう参道である。酒井黙禅といえば松山赤十字病院の名誉院長であるが、松山赤十字病院長を大正九年(一九二〇)から昭和二三(一九四八)まで勤めたと言えば、まさに太平洋戦争真っ只中である。いろいろと苦労があったと思う。その後三年ほど野村町立病院長を務めた後、田高庵で過ごしたという。田高は現在の道後多幸町をいう。ひらがなで書けば同じである。 |