愛 媛 の 散 策

 

松山の観光特攻隊!

 

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第四章 城北方面

 
五 長建寺

道後村めぐり二五番

もりもりもりあかる雲へあゆむ(種田山頭火)

以前の句碑は「よくみれば薺花(なずな)花咲くかきねかな(松尾芭蕉)」で、道後村めぐりのリニューアルによって句碑が変わった。

とにかく猫が多い。長建寺は天正一一(一五八三)年、開山真名誉了吟が松前(現在の松山市松前町)に開創し、加藤嘉明が現在の場所に移した。

六 弘願寺

道後村めぐり二六番

念ずれば花ひらく(坂村真民)

道後村めぐりのリニューアルによって新設された句碑。この句碑は「高木町高音寺」「南高井町ていれぎ名水の里取水場」「権現町県立盲老人ホーム権現荘」、さらには「今治市国分寺」にある。わざわざ、弘願寺がこの句碑を並べる必要は?おまけに、門前にはアンパンマンの石碑もあるし。イマイチよく判らんお寺。個人的には「念ずれば花ひらく」よりは「二度とない人生だから・・・」の方が好きである。長すぎて枠に入らんのだろうが。

 

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第四章 城北方面

 
七 天徳寺と十六日桜

道後村めぐり二七番

つくしけん人のまことをにほはせてさくかむ月のはつさくらばな(西村清臣)

天徳寺の場所は弘願寺の奥、つまり道後村めぐりの一番西の端に位置する。このお寺は幼稚園にもなっているので、平日などの出入りは少々気兼ねをする。この「十六日桜」は、ヤマザクラの早咲きの品種で旧暦の正月十六日頃に開花するためこの名前がついている。また、小泉八雲の「怪談」により英文で世界に紹介され、孝子桜として名高いという。

旧暦一月一六日に咲く桜ということで、平成一七年二月二〇日頃に出かけたところ、確かに咲いていた。「なんじゃこりゃー」と思った。その二年前には、松山城で十月に咲く桜も見た。たかが桜とあなどるなかれ・・・である。

この句碑そのものは、御幸一丁目桜台にある。元々近くにある龍隠寺にあったといい、ここの桜は戦災で焼け、枯れてしまったという。この桜も一度枯れた後に新たに植えなおしたため、特異性が失われたと書かれている。

この龍隠寺は、先のロシア人墓地のまん前にあるが、立て札に「関係者以外立入禁止」とあるので、入るのに躊躇するが、次のとおり、桜に関する著名人の句碑がどどっと並んでいる。

嘘のよな十六日桜咲きにけり(正岡子規)

咲いて一りんほんに一りん(種田山頭火)

静かなる山下影に庵つくり雪粧わせて見る桜かな(西行法師)

西に行き法師もいかに初桜しばしとてこそ杖とまりけり(一遍上人)

花に来て寺の田楽よばれけり(柳原極堂)

一枝に一輪十六日桜かな(河東碧梧桐)

人の気を花に乗せゆく桜かな(松尾芭蕉)

又たくひ世は梅さかり此の桜(小林一茶)

ただ、この句碑はかなり新しい。多分住職さんが十六日桜を惜しんで、桜に関する句碑を集めてきたのだろう。もっとも、本当に十六日桜か?と思われる句碑もないではないが・・・それはともかくとて、十六日桜を見ての感想が一様に読み取れ、作者の心までが読み取れるような気がして面白い。特に種田山頭火の句など「なんじゃ、こりゃ?」と思わないでもない。それだけ松山の話題になっている十六日桜だが、平成一八年二月二三日に行ったときには咲いていなかった。時期が悪かったのかもしれないが、他の桜の特異性が失われつつある中、何時までも残ってほしいものである。

八 酒井黙禅と松山赤十字病院

酒井黙禅松山赤十字病院長を大正九年(一九二〇)から昭和二三(一九四八)まで勤めた後、三年ほど野村町立病院長を勤め、晩年は現在の道後多幸町にある田高庵で過ごしたという。田高は現在の道後多幸町をいう。ひらがなで書けば同じである。その中から、いくつかを紹介しようと思う。

春風や博愛乃道一筋仁(文京町松山赤十字病院)

酒井黙禅は、福岡県出身で東大医学部を卒業している。その際に東大俳句会に入会している。大正九年、三八歳で松山赤十字病院長として松山に赴任して、二九年間病院長を務め、この碑の説明には「名誉院長」の称号とともに、昭和二八年の松山赤十字高等看護学院卒業式に祝辞の中で詠まれたものだと書かれている。

俳句会の中で高浜虚子に出会い、「ホトトギス」に入会した後に松山へ赴任してきた酒井黙禅には、松山の街はどのように映ったのだろうか。夏目漱石のことがあるから、気になるところである。

神木唐楓さ庭に風媒畏しや(道後多幸町五)

松山神社口バス停から松山神社へと向かう参道の途中、彼が晩年に過ごした田高庵跡にあるが、現在はアパートになっている。

東風の舩高濱に着き五十春(祝谷東町松山神社参道)

さきほどの田高庵跡から、松山神社へと向かう石段の途中にある。

鮎寄せの堰音涼し寶川(石手一丁目岩堰公園)

道後村めぐり一七番、岩堰にある。

春光也三百年能城乃景(祝谷町五丁目道後公民館祝谷分館)

この句が読まれたのが昭和三七年(一九六二)、で、坊っちゃん列車では「加藤嘉明は八年の歳月をかけて天守閣を、合計二六年の歳月をかけて城下町松山を築きました・・・」と説明があるのだが、三層の松山城天守閣築造は久松定行の代、寛永一九年(一六四二)ということになる。その差は三二〇年かぁ、まあ、誤差の範囲なんだろうな。

ちなみに、この句は「道後村めぐり」で最も行くのが困難な「瀬戸風峠」のチェックポイントとなっている。松山神社、常信寺から約四〇分ほど坂を登ったところにある。ただ、チェックポイントの場所からは、確かに松山の風景がすばらしいのだが、後ろを向くと、大分譲地になろうとしている街並がある。だから、白水台経由伊台行きのバスに乗って南白水台三丁目で下車すれば、登らずして二〇分ほど歩けば到着する。

あと、探していけば、結構色々なところに彼の句碑が見つかったりするが、まあ、それは別の機会にすることにしよう。

 

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