坊っちゃん列車の時代を巡る |
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序 章 坊っちゃん列車の時代 |
「本日は坊っちゃん列車にご乗車いただきまして、誠にありがとうございます。私ども伊予鉄道は明治二十一年十月に日本で最初の軽便鉄道として、松山〜三津間六・八キロの区間に蒸気機関車を走らせました。坊っちゃん列車の愛称は、夏目漱石の小説坊っちゃんの中で、乗車した感想を『乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ゴロゴロと五分ばかり走ったかと思うと、もう降りなければならない』と紹介されたことから、坊っちゃん列車と呼ばれるようになりました。この坊っちゃん列車は蒸気機関車からディーゼル機関車へと変わってはおりますが、限りなく忠実に再現されております。本日は短い時間ではありますが、明治時代にタイムスリップした気分を味わってください。」
松山市内を平成一三年に走り始めた坊っちゃん列車、その坊っちゃん列車の乗車すると、車掌がこのような説明をしてくれる。 今年は小説坊っちゃんが世に出て百周年ということらしい。そんなことを知らずに、今年三月に「坊っちゃん列車と小説坊っちゃん」を執筆して、おおっ、ナイスタイミングなどと思ってしまったものである。で、その記念すべき第一作目の出だしと同じになってしまったことに大変恐縮するのであるが、まあそれもよいではないか、と開き直る。 現代の街を走る坊っちゃん列車は、先の説明のとおり、忠実に復元されたものなのだが、では、明治の時代にはどのような風景が広がっていたのだろうか。そんなときに、ふと見る古地図。昔の鉄路が失われたところ、そして、その古地図にでてくる道が現代のどこにあたるのか。古地図は無限の想像を掻き立てる。 その中で、鉄路については夏目漱石の小説「坊っちゃん」で、道路については正岡子規の「散策集」で当時の断片的な姿を見ることができる。 これから私の述べる話は、私がそう思うだけの話であって、松山の歴史を科学的根拠に基づいたものではない。その意味では先に言っておこうか。 この文章はフィクションであって、実在する人物や地名は出てきますが、その内容を裏付ける根拠は一切ありません。 「仮説松山史の一部分」とでも言っておこうか。仮説を述べるだけなら罪はなかろう。と最初から開き直ってばかりいてどうするんだ、とも思うが、俳句の世界や正岡子規らを研究する方々はまじめな人が多いから、先に言っておかなければ大変なことになる。これだけ言っておけば、何にも言われないだろうということで本論に入ることにしよう。 |
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第一章 小説坊っちゃんの舞台巡り |
一 散策のプロローグ |
小説坊っちゃんと言っておきながらなんなのだが、俳都松山の中心的人物である正岡子規が松山に残した功績は計り知れないものがある。が、それを私のような素人が俳諧の外から見た感想としては、正岡子規の後を昔ながらの伝統を重んじる高浜虚子と斬新な世界を好む河東碧梧桐が対立していく風景が見えてくるのだが、正岡子規自身が実は斬新な俳句を好んでいたのではないか、という気がするのである。野球にかかる句を見ていると、そんな気がしてならない。 ま、それはそうとして、実は正岡子規は松尾芭蕉に憧れていたのではないか、とひそかに思っている。それは、松山平野の狭い範囲ではあるのだが、結構散策を好んで、その中で俳句を詠んでいるところである。病がなければ、全国を旅するつもりではなかったのだろうか。だから、最後に松山を離れた後に、奈良に寄って「柿食えば・・・」の句を残したのではないか。ともかく、そのおかげで、松山での紀行は「散策集」として残り、少々失礼ながら、私のような性格の者にとっては、格好の好奇心の的となるのである。 散策が好きで、何でもいいから理屈をつけて散策をしたい、と考える私としても「散策集」は難しい。解説本がなければ意味が判らない。そこへ行くまでの間には、やはり「坊っちゃん」の中に出てくる坊っちゃん列車の記述が一体どこなのだろうか、ということから始まっても何ら不思議ではなかろう。 実はすでに五年ほど前から、私なりに小説坊っちゃんの舞台を詮索したりして、それを私が管理するサイトで意見を述べてみたところ、先のまじめな先生方に総すかんをくらったことがある。中には「君は夏目漱石のことを知らない。一度会に参加しなさい。」と言われたこともある。が、それで「はい、そうですか。」と言ったのでは、 表現の自由はどこにあるんだ〜! ということになる。だから、私はそのような苦言にめげずに、「坊っちゃん列車と小説坊っちゃん」で私なりの意見を述べた。 ところで、私は坊っちゃん列車に毎週乗車しているのだが、もうすぐ二〇九週間連続乗車の日がやってくる。このときがまさに、四年間毎週かかさず坊っちゃん列車の金字塔を打ち立てることになる。が、最近少々疲れてきた。先日なぞ、私一人で道後温泉駅の売店で本を買おうとしていたら、売店の女性が「あのぉ、坊っちゃん列車何回くらい乗車しました?」と聞かれてしまった。「三百回を越えました。」と答えたものの、後で考えてみると、かずまると親子二人でいるところで言われるのならば判る。だが、今日は私一人で居たのである。この中年のおっさんの顔を判別した上で、 ひょっとして、私の姿を見かけたら、「あ〜、あの人がきたよ」って、後ろ指差されてるの? 話は脱線したが、そんなこんなで散策を続けた結果は、松山市教育委員会サイトで「俳句の里巡り」全一三三碑、さらに、愛媛新聞社あっとえひめサイトで「まつやま句碑めぐり」全二三六箇所五九二碑に挑戦することになった。その中で、ひとつ私なりの発見があった。これだから散策はやめられない、と思った。それをこれから整理して行きたいと思う。 夏近く道後に幾度降りたやら(かずまる父)今回もやるの? |
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二 坊っちゃんの三津上陸 |
小説「坊っちゃん」の中では、坊っちゃんは三津で松山に上陸している。「ぶうといって汽船がとまると、はしけが岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭はまっ裸に赤ふんどしをしめている。」と書かれている。「停車場はすぐ知れた。切符もわけなく買った・・・ごろごろと五分ばかり動いたかと思ったら、もうおりなければならない。」とあるが、なんで五分なの?とよく思っていたものである。 小説「坊っちゃん」をもう一度読んでみる。すると、主人公が三津に着いた直後、地元の子供に目的地の学校はどこか?と尋ねて、「二里(八キロ)ほど離れている」と書かれているではないか。ということは、八キロを五分で走破!?平均速度時速九六キロ、「アンパンマン列車」も真っ青である。 しばし、この渡し舟に乗って、短い時間ではあるが、坊っちゃんの松山上陸の雰囲気を味わうことができる。船長さんには悪いが、わざと対岸からやってきて、ちょいと目的地へ行った後にまた乗船して、元に戻ったこともある。 涼風や渡しはここでふたつみつ(かずまる父)渡しと私、三つと三津をかけてみました! ただし、船長さんは決してまっ裸に赤ふんどしをしめているわけではないので念のため。 |