坊っちゃん列車の時代を巡る |
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三 道後温泉〜三津口(道後鉄道) |
道後温泉から三津口、つまり古町までは道後鉄道の方が先に開業している。坊っちゃんが宿直の日に道後温泉から帰ってきたときに降りた駅が古町である。現在、道後温泉から古町方面へ最短距離で行こうと思えば、上一万で下車して城北線に乗り換えることになるのだが、道後鉄道は現在の城北線よりもかなり北側、つまり樋又通りのあたりを走っていたのである。この路線が今のどこなのかを古地図を見ながら調べていこうと思う。 こちらには、道後今市付近で道後鉄道跡とされる道路があることが判っている。この道は県道松山北条線の旧道(松山赤十字病院の東側から北上する道)へ向かって北西へと斜めに走る狭い道である。その東側は人家が密集していて、はっきりとは判らないにせよ、道後温泉からは一番町方面へと向かう路線と並行していたであろうから、大体の路線を推測することができる。 古地図によると、昔はこの松山北条線の旧道はなく、その少し西側にある細い道のほうがメインストリートだったらしく、そのあたりで宮前川を越える。この宮前川はこのあたりから下流域が二級河川である。道後温泉界隈では御手洗川という名称をみることがある。ということは、その上流である岩堰までは一級河川重信川水系石手川なのだからなかなかややこしい。宮前川に添う道は狭く、場所によっては平日車の通行を規制しているのだが、この道は東に向かえば道後温泉へ、西に向かえば萱町六丁目電停からさらに三津へと向かう主要街道だったのだろう。 道後鉄道は、この県道松山北条線の旧道とその西側にある道路の間で宮前川を渡る。このあたりの川は三方張りではなく、いわゆる石積みだから古いはずなのだが、考えてみれば、この路線が廃止されたのが昭和二年だから、すでに八十年近くが経っており、橋があったと思われる場所に建てられている家だって、路線廃止後に立てられたとしても、相当古い家ではある。そのくらいのつもりで、よーく川を見てみると、なんとなく斜めに構造物が見える。これが橋脚跡かどうかは判らないが、場所としてはそのあたりにあったとしてもおかしくはない。 宮前川を越えると、樋又通りへと向かうまでの間に、斜めに走る細い道がある。昭和四九年の航空写真でもそのその場所が道後今市から伸びる線路跡の延長線上と一致することがはっきりと判るのである。そして、その先に千秋寺前という停留所があったようだ。ただ、この駅は当初からあったのではなく、明治四四年に三津口と同時に作られた駅らしい。 ただ、それから先の線路跡はよく判らない。当時は樋又通りらしき道もないことから、ひょっとしたら道路にリリースされてしまっている可能性が高いような気がする。 その幻の線路跡が再び我々の前に現れるのが、木屋町電停付近である。木屋町から現在の鉄砲町を経由して上一万まで線路が付け替えられたのは昭和二年、国鉄松山駅が開業した時である。現在の城北線は、木屋町の東側で大きく南へとカーブして高砂町へと向かうが、そのカーブしていく時に左手にまっすぐに伸びていく空き地があることに気づく。 この空き地は、現在の木屋町東側の南北に走る道路との踏切まで続いている。その先は家が建ちこんでしまっているのだが、その道路に面した家のブロック塀は、さきほどの空き地に沿って並んでいるブロック塀の延長線と一致する。しかも、その家の東側には以前は駐車場となっていて、奥のブロック塀がそのまま一直線上に続いている。現在は分譲地になってしまっていて、そのブロック塀を伺いえることは難しくなっている。 この木屋町からの線路跡と思われる斜めのブロック塀は、その元駐車場(現在の分譲地)の東側にある南北に走る細い道路を過ぎて、さらに東側に至ってブロック塀が斜めに走っていることが判る。そうして、線路跡は樋又通りへと消えていくのである。 自慢にもならないが、元々「かずまる特攻隊」という名称を最初に使ったのは、平成一四年春、この道後温泉から木屋町までの線路跡を探して、かずまるを自転車に乗せて走り回ったときなのだ!わはははは! わははは・・・と笑ってみたところでどうなるものでもないが、ともかく、我々なりにいろいろと松山の街を走り回ったものである。 行く春に廃線探し自己満足(かずまる父)本当に自己満足です! |
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四 上一万〜古町(伊予鉄道城北線) |
かつては道後温泉から木屋町までは樋又通り沿いを走っていた旧道後鉄道路線が、現在の城北線に変更されたのは、国鉄松山駅が開業した昭和二年だという。千秋寺付近よりも鉄砲町経由のほうが乗客が多かったというのが理由らしい。 この城北線は、昭和二年に敷設された場所のまま現在にいたってはいるのだが、それでもいくつかは線路が変更されている。 城北線は現在一番町側からの環状運転をしているが、敷設当時は道後温泉側から線路は上一万で分岐し、左に折れると現在と同じく大街道へ、そして平和通りへはまっすぐに直進していた。多分今は四車線ある平和通りの中に含まれてしまったのだろうあたりに上一万の停留所があったという。昭和四四年の環状運転開始までは、道後温泉から城北線、古町経由の便があったというが、環状運転開始の背景には、乗客の移動がそれまでの道後温泉中心から松山市駅、一番町中心へと転換していったことがあげられると思う。いずれにしても、この線路付け替えは、伊予鉄道が単に道後温泉を中心とした観光路線ではなく、松山市民の気軽な足として利用されていくきっかけとなったのではないだろうか。 もうひとつの線路変更は清水町である。かつて、道後温泉からの直通便があった頃は、一五分間隔運転だったらしく、上一万を出た電車は清水町で離合していたと思われる。多分、環状運転が始まって、一〇分間隔運転となったことから、鉄砲町と木屋町に行き違い設備が作られることになって、清水町の行き違い設備は撤去されたのだろう。今も清水町には、行き違い設備があったことを思わせるホームの石積みが残されている。 環状線夏の城山色を変え(かずまる父)確かに清水町と大街道では山の色が違うが・・・ |
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五 立花〜朝生田〜森松(伊予鉄道) |
私は、これまでに伊予鉄道の先見の明について何度か書いてきたものである。が、その伊予鉄道にして、最大の誤算が森松線の廃止だったのではないだろうか。いや、むしろ世間一般には森松線の廃止が伊予鉄道は逆に「先見の明のなさ」として見られているような気さえする。一説には、当時の伊予鉄道はそれほど経営状態がひっ迫していたとも聞く。 森松線は現在の国道三三号拡張の基礎となって消滅したという。もし、もう少し道路が広くて、道路の中央を電車が走っていたならば、石井、森松、久谷そして砥部の交通地図はどうなっていたことだろうか。 伊予鉄道が作成した「松山公共交通ゆめマップ」でも森松線の復活と砥部までの延長が記されているし、実際あちこちで復活の話は聞くが、現実性となると色々な問題点が浮上してくるようだ。 廃線跡を探すにあたり、まずは立花駅の構造から見てみる。森松線はこの立花駅から分岐していた。この駅は現在行き違い設備を持つ島式ホーム一本の駅である。が、このホームに立つと線路の引き方に無理があるような気がしてならない。 石手川公園方面からの線路が立花駅でカーブをとるのはやむをえないにしても、福音寺からやってくる線路も駅直前で一度南側へカーブをしてから駅に進入するのである。ただ、その北側にある派出所をみれば一目瞭然で、城北線木屋町のごとく、なにもわざわざ線路を曲げる必要もないくらいに更地がまっすぐに伸びているし、なんと言っても、立花駅の古い写真ではこんなカーブは見当たらない。 そこで推測なのだが、実際は現在のホームはかつての森松線のホームで、古い写真で見る最も北側のホームが横河原線ホームで、横河原線ホームに伊予鉄立花駅と駐車場スペースを確保したのではないか。だから、福音寺から立花駅に進入する際には、いわゆるS字カーブで元の森松線ホームへと渡ってくるのではないのかと思うのである。 現在森松線はないのだから、伊予鉄道がどのようにホームを使おうと、問題はないのだが・・・ で、立花駅から森松線の分岐跡を探すのは比較的判りやすい。なんと、線路跡が公園になっているのである。この公園は約五メートル幅で百メートル近く続いているだろうか。その公園が途切れる場所に、なんと愛媛銀行がある。勝山町の本店、宮田町に続いて、ここにも伊予鉄道の廃線跡と思われるところに店舗がある。ひょっとして、愛媛銀行の店舗を追っていけば線路跡が見つかるのではないかと思ってしまうくらいである。 雲の峰過去の汽笛か夢地図か(かずまる父)ほんまかいな?と自分でつっこんでどうする? |