愛 媛 の 散 策

 

坊っちゃん列車の時代を巡る

 

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六 古町〜三津(松山電気軌道)

 
さて、伊予鉄道最後の廃線跡探しにかかろうか。本章「三 道後温泉〜大街道〜古町」で、古町駅北側で松山電気軌道が伊予鉄道をオーバークロスし、宮前川を渡ったところにあるレンガの橋脚があることはわかったが、それ以外にはなかなか資料が見当たらない。それで後回しにしたのだが、それでは消化不良になってしまうので、自分なりに意見を述べてみることにしたい。

なぜ松山電気軌道の廃線跡のデータが乏しいのかであるが、ひとつには、「勝てば官軍」のごとく、松山電気軌道が伊予鉄道と争って敗北したことが原因だと思う。伊予鉄道に吸収され、まっさきに廃線になってしまったことから、伊予鉄道の歴史にもあまりデータがないことが挙げられると思う。

次に、当時の地図では、明治三六年(一九〇三)の地図がベースになっているのだが、当然ながら当時は伊予鉄道しか走っていない。そして、次にあるのが「昭和三年三津浜測図、昭和七年鉄道補入」と書かれた昭和七年(一九三二)なのである。つまり、松山電気軌道が存在していた頃の地図が見当たらないのである。

最後に、よーく考えれば、昭和二年に国鉄が松山に到達する以前の話である。国鉄松山駅ができたときには、すでにこの路線は存在していないのである。あれから八〇年近く経ち、地形が変わってしまったとしてもやむを得ないのかもしれない。

まあ、逆にいえば、ここまで資料がないのであれば、私がここで好き勝手にあーのこーの言っても「黙れ!貴様!」と科学的根拠を突きつけられる心配もないわけだ。

あー恐ろしや〜!

というわけで、ここから先は、しつこいようだが全くのフィクションと考えていただいて結構である。

昭和七年の地図を見ると、古町駅北側にある松山電気軌道のオーバークロスがまだ残されているのが判る。逆に、すでに昭和四年には萱町から古町経由で国鉄松山駅へと乗り入れをしているにもかかわらず、萱町〜古町間の路線図が補正されていない。

それはともかくとして、実は、手元に柏書房出版の「大正、昭和初期の市外地図」がある。すでに著作権が切れているということで、松山市立図書館でコピーしてきたものである。これは、基本的には昭和七年の地図と同じなのだが、道路の線がかなり詳しい。ただ、この道路というのが少々荒く、本当にものさしで図って距離を出したので良いのか?と疑いたくなるような線があったりもする。ただ、ありがたいことに旧道後鉄道の木屋町〜道後温泉間が細線で残されているのである。また、地形図では萱町から古町駅北側を経由して六軒家車庫までが線路になっているのに対して、この市街図は旧道後鉄道跡と同じように細線で示されている。

松山電気軌道跡の路線はそのまままっすぐ北西へと伸びている。それはまず間違いないだろう。その終点は場所から見て、現在の三津街道と県道松山港線の交差部、つまり四電工あたりと思われる。ここには昭和七年の地図を見ると、いかにも線路の車庫です、というような建物に見えるし、伊予鉄道史「坊っちゃん列車と伊予鉄道の歩み」では、実際このあたりに松山電気軌道の六軒家車庫があったという写真があるから、それも多分間違いないだろう。もうひとつ言えば、昭和一六年頃までは伊予鉄道は水力発電会社も兼ねていたはずだから、今そこに四電工があるというのは、至極もっともな気がしてならない。

さらに、この六軒家車庫を右手に見ながら左へとカーブをとっている写真があるから、常識的に考えると、松山電気軌道は現在の三津街道の南側を併走していたのだろう。そして、ここから衣山までいつのまにか道路拡幅で消えてしまったというのも間違いではなかろう。

と思って、昭和四九年の航空写真を見ていると、この四電工のあたりにうっすらと斜めの線が見えるのである。もしやと思って住宅地図を見ると、なんと、いかにも車両基地の形に駐車場の境界があるではないか。というわけで、早速出かけてみると、確かに斜めに走るブロック塀がずらっと並んでおり、いかにも昭和七年の地図にあるような車両基地があったと言えるような地形なのである。

こーれは大発見!

札ノ辻から伊予鉄衣山駅付近まで、松山電気軌道の大体の線路跡が引けるようになったではないか。ちなみに、線路跡とは直接関係ないが、三津街道と県道和気衣山線の交差点は、昭和七年当時はもっと東にあったようだ。伊予鉄衣山駅が高架によって県道の東側から西側へと移転したが、その踏切からは現在少々西へと向きを変えながら信号にあたる。それが、昭和七年頃にはそのまままっすぐに伸びていたのだ。その当時の道路跡と思えるところに農協があったりするから、なお納得ができる。

さらに、この三津街道は衣山駅を過ぎたあたりで一度南へカーブした後、再び北上して伊予鉄道をオーバークロスする。ここで三津街道がカーブを描くのは、当初このあたりに伊予鉄道のトンネルがあった場所だから、そういう地形の問題なのだろう。が、このあたりにこの一度南へカーブするところで、まっすぐに伸びる線があるのである。そして、道路が北上するところで今度は逆に南下し、この三津街道と交差するのである。当時は国鉄が開業していなかったが、その国鉄のさらに南側を緩やかに弧を描く線があるのである。しかも、この線が妙なのは、この細い道路の南側にもう一本の細い道路があるのである。これが松山電気軌道跡であるとはいえないだろうか。

国鉄が松山までやってきたのが昭和二年四月、一方松山電気軌道が営業を止めたのが同年一一月、わずか半年の間だけではあるが、西衣山付近の地峡部には三本の線路が敷かれていた。そして、松山電気軌道と国鉄は交差していたのである。その場所は一体どこなのか。

通称三津街道は伊予鉄衣山駅の南側にかつての駅の跡と思われる石積みがあったという。現在はそれを判別することはできない。しかし、三津街道が一度南へカーブを取ったところにある田んぼは現在一枚田となっている。三津街道との高低差を考えると、この田の中に線路があったとは考えにくい。では、かつての線路はこの田んぼの北側だったのか、南側だったのか?

南側はいかにも農道水路の形態をとっている。三津街道と伊予鉄道の交差部ではその南側走っている。そして、国鉄との交差部には、およよ・・・と思うような構造物があるのである。ひょっとして、これが元の線路の道なのか?と早合点しても仕方ないような光景であった。が、実際には松山電気軌道と国鉄の交差部はもっと東にあったという。この構造物は、元々一本の水路だったところに国鉄の線路が敷かれて、国鉄が地面を掘っていったものだから、水路が分断されて、現在はポンプアップによって水路がつながっている、そういう構造物だったのかもしれない。

そう考えると、やはり松山電気軌道は「軌道」という名のごとく、三津街道に沿って走っていたものと考えるほうが無難である。一方、伊予鉄道と国鉄の交差部よりも西側の山の中には、明らかに松山電気軌道跡と思われる道が残されている。多分、農道の一部として利用されている部分だけが道路となっているだけなのだろうが、その脇には枕木で造られた杭が何本も立てられている。

では、その間の松山電気軌道跡は一体どこなのか?と考えてみると、どうも私の妻の実家がある関係で、よく利用している現在のJRの南側に沿っている道路ではないかと思われるのである。そのあたりは、現在大分譲地となっていて、当然かつての面影を一切残していないと言うことは判るが、そういえば、と思うようなフシがあったりもするのである。

たとえば、愛光学園から伊予鉄西衣山へ降りる道が舗装されたのもここ最近だし、さらにJR北側から山西方面へと続く道が舗装されたのは更に最近である。あくまで想像でしかないのだが、これらの道が最近まで舗装されなかったというのは、最近まで松山市道として認定されていなかったからではないか?しかも、農道としての機能があったのであれば、元々幅員が四メートル以上ある道なのだから早々に松山市道となるべきだと思う。で、実はこれらの道は個人の道、つまり民地内道路ではなかったのだろうか?と思うのである。と思ってよく見ると、その道路には「商用車通行禁止」という看板がある。明らかに私有地道路である。そう考えると、ひょっとすると、この道が松山電気軌道跡であり、つまりは伊予鉄道関連の所有地だったのではないかという気もする。

まあ、このあたりは、実際に公図を調べてみればわかる話で、それをすることもなしに勝手なことを言っているのであるから、それ以上の追求をするのは控えることにしようか。

松山電気軌道の三津浜付近での線路は、線路跡は残されていないものの、ある程度はここだという場所が判っている。三本柳から三津までの松並木を走る電車の風景も多く残されている。三本柳の交差点を見ると、北側にいかにも線路があったような大きな弧を見ることもできる。が、西衣山と山西の線路跡から三本柳までの線路が最後の謎として立ちふさがる。

「伊予鉄五〇年譜」に出てくる地図では、松山電気軌道は現在の新田高校北東端で一度伊予鉄道と再接近してから三本柳をめざしている。一方、当時の松山の観光パンフレットとして鳥瞰図のような地図があるが、それによると、松山電気軌道は山西からは伊予鉄道と接近することなく、そのまま三本柳をめざしている。どちらが正しいのかは判らないが、間に新田高校という大きな敷地があるから、多分探しに出かけても跡は見つからないのではないかと思う。

さて、最後にひとつ。松山電気軌道は現在の三津の近鉄タクシー付近から宮前川を渡って西側へと出て終着駅へと向かったと聞いている。が、宮前川の反対側に伊予鉄道の細長い敷地があるのである。場所は現在の伊予鉄三津駅から三津街道の踏切を越えて、港山へと向かわず、そのまま海岸沿いに行ったところにある。最初はかつての松山電気軌道が乗客の利便性を考えてか、貨物の搬送を考えての引込み線跡かと思っていたが、松山電気軌道の線路と考えると少々無理がある。が、ここに伊予鉄道の線路後と思われる細長い敷地があることは事実であり、一体ここにはかつて何があったのだろうという遠い思いがするのである。

このように、当初はさっぱり判らなかった古町〜三津間の松山電気軌道跡であったが、自宅から近いところを走っていたこともあり、なんどか足を運んでいるうちに、概ねの位置が判ってきた。個人的には伊予鉄道と松山電気軌道との対立には興味はなく、西衣山の地峡部の狭いところに線路が三本も敷かれた事実、そして、その一本が八〇年近く前に撤去された事実に興味を持って追いかけてみた次第である。いずれにししても、松山市立図書館での資料や色々とヒントを与えていただいた方々へ感謝するものである。

新緑に草生す鉄跡八十年(かずまる父)うーん・・・

 

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