坊っちゃん列車の時代を巡る |
> 愛媛の散策へ > 松山の俳句・歴史・風土へ > 1つ上へ > 第3章 |
一 岩堰と足立重信 |
足立重信が石手川を付け替えたという話は有名である。国土交通省のサイトを見ていると、昔の松山平野を流れる川の図がある。石手川は岩堰で道後温泉方面へと現在の石手川方面へと分かれてはいたが、その下流で松山城を取り巻くように二手に分かれて、そのまま松山空港方面へ流れて海に注いでいる。一方、小野川も現在は石手川に合流しているが、かつてはそのまま海へと直接注いでいるのである。 いろいろなサイトや本を読んだりして整理すると、概ね現在の湯渡橋あたりまでは現在の石手川と同じ経路を流れ、そこから南側は二番町あたりから出渕(現在の南堀端の西側)方面へ、北側は現在の平和通り付近を流れて、再び二つの川が合流していたらしいのである。 が、一方では、岩堰から湯渡橋までは堤防もなく、時に川の流れが変わったりしていたというから、氾濫を繰り返していたのだろう。それならば、下流で二つの川が合流したと言うのも少々怪しい。合流場所を推測すると、現在の宮前川と中の川の合流地点である南江戸四丁目の中央浄化センターあたりだったと言っても、まあ可もなく不可もなくといったところに違いないと思う。 その下流はというと、現在は南斎院町の日吉神社西側付近から徐々に北へと向きを変え、三津の港へと流れている。また、三津への流水を軽減するかのごとく、弁天山の下に放水路トンネルを抜いて、吉田浜へと流している。これがかつては松山空港あたりへと注いでいたというのである。今でも先の日吉神社西側や生石町の市営生石団地あたりから細い水路が南側へと別れ出て、高岡町の愛媛県国民健康保険団体連合会国保会館東あたりでこの二つの水路が合流し、松山空港北側へと注ぐ堂之元川へ注いでいる。これが地表に残る昔の石手川の名残だと思われるのだが、多分松山の街は降雨により結構川の流れが変わったりしたところだったのだろう。 加藤嘉明が足立重信に命じたのは、こういう湿地帯のような松山の街を整備して、石高をあげようとしたのだろう。それからすれば、石手川が人工河川だといえるのは、湯渡橋あたりから下流域だったということになる。実際には、岩堰からの本流を湯渡橋方面へ流し、湯渡橋付近からは河川パイパスともいえる人工河川で重信川へと水路というよりある意味堀を築き挙げたわけである。そういって改めて石手川を眺めてみれば、十分に川幅が確保されているところもあれば、伊予鉄道石手川公園駅付近のように、なんだか川を削ったような気がしないでもないような場所があったりもする。 足立重信はこの石手川人工河川の中で小野川の水路をも付け替えている。だが、実際には小野川と石手川とを合流させることにより、結構市坪側が水害に遭うようになった。現在でも朝生田付近では小野川の氾濫の話はよく聞く。 荒れにけり茅針まじりの市の坪(正岡子規) この句碑は市坪北一丁目市坪集会所と松山市市坪南二丁目素鵞神社の二箇所にあるからよっぽどだったのだろう。だが、実際に城を築くときには、当然城を守ることを第一とする。極端な話、城を守るためには意図的に城の反対側にある堤防を切れやすくするために、堤防を薄くする場合もあったという。 ここの場合は、石手川と小野川との合流地点で、しかも現在よりも土木技術の進歩していなかった時代の工事だから、相当無理があったことは否定できないと思う。足立重信の功績を否定するつもりはないが、松山の城下を守るためには、意図的にこのようなことをしたということが全く見えてこないのもいかがなものかとは思う。 では、旧小野川の下流域はどうだったのだろうか。こちらは石手川と合流するあたりの反対側、和泉北にある泉永寺あたりから西に流れる水路がある。ここから国道五六号、JR、伊予鉄道を越え、松山空港南側の洗池川と今出の貯木場へ向かう三段地川に分かれて海へと注ぐ。洗池川と堂之元川は松山空港東側で水路によってつながっていたりするから、小野川を失ったこのあたりは反対に泥湿地帯だったのかもしれない。そう思ってみてみると、このあたりは現在結構河川工事をしていたりする。 まあ、私は城北の河川の話をしたいだけであって、あんまり松山の南の話をするつもりはない。 また、古石手川がどこを流れているのか、地下水脈がどこを流れているのか、そういう専門的なことは私は判らないし、あえて探ろうとも思わない。ただ、私自身が知っている範囲で、六軒家や平和通り周辺では昭和の終わり頃でも公共水道を引かず、地下水だけで生活している家庭が結構あったことに驚かされたのである。 石手川遠くなれども田水沸く(かずまる父)松山てひょっとして水の都? |
> 愛媛の観光へ > 松山の俳句・歴史・風土へ > 1つ上へ > 第3章 |
二 宮前川の流れを見て |
この宮前川というのは、典型的な都市河川である。特に上流部の水量があるわけでもないし、道後温泉から三津街道沿いに流れた川は、県道松山北条線の旧道、つまり道後鉄道が渡っていたらしいところから、山越方面の大川へと本流が流れていくのである。 そういう貧相な上流部であるのに、JR松山駅の東側では河川の付替工事が行われている。要するに現状では河川幅を拡張しなければ、河川の安全が確保できないから工事をするということである。現在は、足立重信以前の時代にはそのまま松山空港付近の吉田浜から海へと注いでいたというのに、現在の宮前川は北斎院付近から北へと向きを変え、三津から海へと注いでいる。そして、三津への流水を軽減するかのごとく、弁天山の下に放水路トンネルを抜いて、かつてのごとく吉田浜へと流しているのである。 この事実を見る限り、松山城北の地下水脈が豊富だと言うことが伺える。つまり、松山市街地の地下には豊富な地下水が流れているのである。松山市公営企業局のサイトを見れば、平成六年大渇水の時のダム貯水率や地下水位が出ている。ダム貯水率がゼロを切ったのは有名だが、面白いのは南高井観測井戸の水位は最大でも五メートル五〇センチ程度だったということである。大渇水以来、一時的でも井戸の水位が六メートル以下になったことはあるし、一時危ぶまれた昨年でも五メートルをわずかに下回ったことがある。 個人的には、あのときの大渇水は実は通常の場所よりも雨の降る場所が若干南によっていただけで、実際には周辺部分には雨が降っていたのではないかと考えている。事実当時住んでいた宇和島では、毎日のように夕立があって、津島の山財ダムではそのたびに放流していた。そういうこともあって、実は松山では雨が降らなかったが、重信川水系全体で見れば、結構雨が降っていて、だから地下水位があまり下がらなかったのではないかと思っている。 こうしてみると、昔の松山は水の都だったことが判る。それが水に対する感覚を麻痺させ、現在では毎年水の心配をしなければならないし、雨が多ければ水害を心配しなければならない都市に変えてしまったのではないかと思うのである。 入梅やなければそれが心配で(かずまる父)なんという愚作! |