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へんろ橋〜石手川公園駅(松山市:散策) 石手川は江戸時代、足立重信の治水工事により、現在の道後温泉街方面へ流れていた川を重信川へ付け替えたとされている。従って昔の石手川は極端な話、現在の平和通から六軒家付近から宮前川へと流れていたと推測され、この付近では15年前の話だが、水道ではなく井戸で生活している家庭が多かった。 その付け替え場所が上の岩堰であるが、それにしても、この岩場が人工的構造物であるとはとても思えないほどのものであり、当時としては非常に困難を極めたものであったろうと思う。 さて、上の2枚の写真は、以前の道後村めぐりの際に撮影したものであって、平成17年5月28日(土)このへんろ橋から川のコンクリート護岸上を伊予鉄石手川公園駅まで歩いてみることにした。 現在石手川は一級河川重信川水系に組み込まれている。が、石手川の流れは自然のものではなく、人工的に作られた川であると考えると、非常に驚かされる。上はへんろ橋の下流にある水管橋である。 この向こうに湯渡橋がある。その手前に大きく茂った木々があって、我々は一度護岸を登って道路に出る。 湯渡橋の下。橋を下から眺めると言うのは、瀬戸大橋でなくても大変楽しいものがある。特に緑が多いのが良い。ただ、この先は河川内に人家があったりして、一度我々は道路に出ることになる。石手川の場合は、結構公園化が進んでいる。なによりも、いたるところに水洗トイレが整備されてきているのが良い。 向こうに見えるのが旧国道11号(現在県道334号)の橋。以前に比べると非常にすっきりしている。都市公園としては最適の場所であって、このようなところでのんびりとできるのは非常に楽しい。ちなみに、向こうに見える建物は葬祭センターであるが、以前は河川側に駐車場への降り道があったが、現在そこはふさがれていて、南側に移設されている。 国道11号の橋が見えてきた。石手川の河川断面の特徴としては、橋の位置が河川のハイウォーターより50センチ以上(砂防非指定の場合)とされていることから、多分河川管理道は今我々が歩いている場所ではなく、もうひとつ右上の場所であると思われる。いわゆる2段堤となっていて、さらにその外側に道路があって、その外側で地面が下っている。 八坂通りへと続く橋。このあたりは堰が断続的にあって、水が流れていない場所が多く、結構ヘドロの臭いがきつい。 旧国道33号の橋。今まで歩いてきた中で、この場所の川幅が最も狭い。にもかかわらず、川の向こう側には、川の内側に民地に払い下げられた建物がある。川幅が狭いために、河川断面が最も急になっていて、水量が多いと少々怖い。しかし、今日は全く水が流れていなかったので、歩いて渡った。 いよいよ最終目的地の伊予鉄石手川公園が見えてきた。このアングルから出発していく電車を見ると、非常に気分が落ち着くのであった。(2006.02.23、撮影日当日) |
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御幸寺山(松山市:低山登山) 御幸寺山は護国神社の裏手にそびえる164メートルの低山で、近くで見ると結構ごつごつとした岩山が見える。かつて松山城をつくった加藤嘉明が現在の勝山をカムフラージュするために第1候補としたという説(他に天山もある)もある。松山城より約30メートルほど高い山である。 登山口は、護国神社と御幸寺の間、いわゆる一草庵の筋の奥にあるのだが、御幸寺を護国神社にある「みゆき会館」のイメージでいたため、しばらく護国神社の中をうろうろとしてしまった。 登山道は松山城の西側ルート程度の傾斜で、道もはっきりしている。11時35分頃に護国神社を出たのだが、山頂に到着したときには、ちょうど正午のサイレンが鳴り響いた。 頂上は鳥居とプレハブのほか三角点などもある。景色は西側を除き、木々に少々邪魔されるものの、ほぼ松山市内が一望できる。頂上が狭いため、松山城よりも展望がよいようだ。下が松山城の遠望である。東には奥道後のロープウェイも見える。 我々はこの後、ロシア人墓地から十六日桜へ向かう予定である。登山口はこのほかにロシア人墓地側からのルートもあるようで、実際頂上手前に1箇所それらしき道もあったが、よく見ると、1回北側へ降りて、再度登るようになっている。迷った場合大変なので、そのまま下山して「マドンナバス」で向かったのであった。(2006.02.23、撮影日当日) |
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