松山句碑めぐり(和気A)

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【02】和気町1丁目 円明寺(和気)

【11】羅以こう能ミ雲のひ可里乃圓明寺て里ふ可げハよ奈〓の月(作者不詳)

2005年7月18日行軍B

円明寺は石手寺や太山寺に比べるとこじんまりとした寺ではあるのだが、やはり句碑の多いこと。


【12】いかにして剪りたる泰山木能花(芳野井寒)

2005年7月18日行軍B

円 明寺の句碑は当初俳句の里めぐりには掲載されていなかった。が、実際に来てみると、「城北」の表示がある。あるいは、一度は掲載されていたものの、掲載が もれたのかもしれない。もっとも、だから、「あっとえひめ」の句碑めぐりで来たから、全句碑を巡ることができたのかもしれない。


【13】麗かやめ久ら乃眼尓も弥陀の像(中野三允)

2005年7月18日行軍B

中野三允は埼玉県生まれの俳人で、明治29年頃に正岡子規の門下生になり、早大政治科卒後早稲田俳句会創設したという。大正14年にこの場所にやってきたらしい。



【14】鶴飛久や丹頂雲越やぶりつゝ(松根東洋城)

2005年7月18日行軍A(俳句の里・城北(9)、旧城北(なし))

芳野佛旅が円明寺の要請を受けて昭和46年10月27日、松根東洋城の8回忌の命日前日に芳野佛旅自身の碑と併せて建立した碑だとい う。ところで、松根東洋城の碑については、「俳句の里巡り・城北コース13番」という説明書きがある。13番は現在太山寺にあるはずだが、どういう意味な のだろうか。手書きというのも気になる。


【15】島遍路干潟歩きて近道す(芳野正王)

22005年7月18日行軍B

芳野正王は「島遍路」、芳野井寒は「作句歳時記」という書籍を出版しているから、多分それらの中に書かれた句なのであろう。



【16】星を掃く寺の銀杏や夜半の霜(芳野佛旅)

2005年7月18日行軍B(俳句の里・城北(なし)、旧城北(20))

芳野という姓は松山には多い。



【17】鈴の音能笠共々に霞みけ里(峨山)

2005年7月18日行軍B

正岡子規は明治25五年11月に京都で天田愚庵と会っているが、この天田愚庵は天龍寺の峨山和尚の許で僧侶になったというが、その峨山かどうかは今のところ勉強不足で判らない。


【03】和気町1丁目 和気町1丁目集会所(和気)

【18】神能子の人乃子にして初日か奈(芳野佛旅)

2005年7月18日行軍B

芳野佛旅は和気町の俳人芳野秀春氏の俳号である。彼は松根東洋城を師として俳句の道に入っている。

【04】勝岡町 内新田公園(和気)

【19】十月の海ハ凪(な)いだり蜜柑船(正岡子規)

2004年9月20日行軍A(俳句の里・城北(10)、旧城北(15))

現在は、夏場のジョギングコース。

【05】和気町2丁目 和気グリーンタウン内(和気)

【20】宵い宵いや稲妻ひかる枕元(渡部玄素)

2005年7月18日行軍B

うーん、わざわざ宅地の中にある碑である。今日は住宅地図を持ってきていないので、和気町2丁目和気グリーンタウン内の個人宅にある という碑を果たして見つけられるのか心配ではあったが、なんと全く無駄な動きをすることなく目的地へと到着した。本日の大収穫である。私の土地勘を褒めて やりたい!と思ったところで、急いで公園に戻ったら、かずまるは飽きもせず1人で遊んでいた。

【06】勝岡町 勝岡神社(和気)

【21】俳諧の天地自在ニ桜哉(松本北嶺)

2005年7月18日行軍B

勝岡神社はかずまるの家の守り神である。そんなことはどうでもよいが、この松本北嶺という人、調べてみると、静岡県の習字の講師とし て出てくる。同一人物かどうかは判らないが、今回の句碑めぐりは俳句の内容を見ても、「マルチメディア」とか「ポケットベル」などの文字があったりするか ら、結構最近建てた碑もあるようだ。が、そういう俳人の碑を追っかけていくのも良かろう。

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