北海道親子3人の旅・回想編(番外編)

 
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「オホーツクに消ゆ」の世界

注意:
このページは、20年前に発売されたファミリーコンピュータのアドベンチャーゲーム「オホーツクに消ゆ(LOGIN SOFT)」の画像を使用しています。
いくら、言葉で言っても、その対比が伝わるわけもなく、また、一応個人的なもので、営利追求していないということで、掲載しますが、それに対する苦情等があった場合には、直ちに、このページを削除します。

「オホーツクに消ゆ」と言うゲームは、元々はPC8801からPC9801へ、さらにファミコンへと移植されたアドベンチャーゲームです。が、私は昭和62年頃にファミコンで初めてゲームの存在をしったため、当然ながら、学生時代の北海道旅行では、このゲームのことは知りません。

ただ、昭和63年2月の旅行のときは、直前に音楽CDが発売されたこともあって、ダビングして、この曲を聴きながら北浜駅でインスタントコーヒー(ポットとスティックコーヒー一式セット持参)を飲んでいた。

今回は、それから19年ぶりということで、再び(時代は変わって、携帯電話のMPに入れて)聞いてみました。20年の時の流れの中でも、決して色あせていない曲が流れていた。

北浜駅

 

いきなりにして、最大の死角!ホームが逆です。ま、それはいいとして、北浜駅といえば、キャッチフレーズは「オホーツク海に一番近い駅」です。

だから、浜辺に死体があがったのであれば、駅員に聞くまでもなく、駅近くの国道上に並んだパトカーを見れば、北浜駅よりも先に浜辺に何かが起こったということがわかるはず。

そういえば、すでに昭和60年には駅員はいなくて、嘱託職員がいて、切符を買ったら貝殻をくれたっけ。昭和63年には喫茶店ができていた。ただ、元々がPC8801のゲームだったのだから、時代的にはあっているのかもしれない。

北浜の海辺

いいじまの死体が上がった場所。

で、画面をよく見ると、左手に岩場が見える。北浜付近にはそんなものはない。だから、案外藻琴駅付近の海辺だったりして・・・それじゃ、北浜駅の駅員さんの会話がおかしくなるか・・・

網走の町

 

今回全然網走市内の写真を撮らなかったので、昭和63年2月の写真を。ファミコン(FC)の方は、左手が天都山、右手奥が網走刑務所背後の山と思うのだが、写真の方は正反対の方向を撮ってます。なぜかというと、案外網走刑務所背後の山が大きいので、町という感じがしなかったので・・・

網走港

私は、行ったことがありませんが、一言。港というからには、色々と港湾施設があるはずです。全くの省略をしていることに一言提言・・・

網走刑務所

 

今回の旅行で、当初時間的に全く考えていなかったのですが、いざ近くを通ったら(実際にはパイパスが抜けていて、前を通らなかった)、後で妻から相当愚痴られました。というわけで、これまた昭和59年3月の写真から。

摩周湖

 

今回は、見事なまでの霧の摩周湖でしたが、ひょっとしたら、雲の摩周湖だったのかもしれない。二人連れの女性旅行客は見かけませんでした。見かけなかっただけで、実際は知りませんが、そんなものいたところで、どうなるものでもない。

屈斜路湖

 

摩周湖第一展望台の駐車場は、1回400円。ただ、硫黄山の駐車場がタダになるというのだが、時間的に無理だった。もし、行っていれば、この景色に会えたかもしれない。

ウトロ港

 

目つきの悪い船員はいなかった。乗船場所からいえば、FCの画像は逆なのだが、設定では運行していない時期ということだし、実際この位置(但し、堤防のこちら側)にいる写真も見たことがある。

ウトロのお土産屋

この写真、シンプルだが、案外現実そのままかも知れない。ただ、思ったほどは、お土産屋で繁盛できる雰囲気ではない。なにしろ、オロンコ岩を抜けて、そこに有料駐車場があって、そこから乗船するんじゃ、お土産を買う場所がない。

知床五湖

 

熊出没ということで、我々は第1湖しか見れなかったが、実際には、こんな感じ。

知床五湖の駐車場

 

ここの実際の駐車場は30分150円ではなくて、1回400円。殺人事件があったとかで、チェーンが張られ、中に入れませんでした。(違うって!)

トドワラ

 

ここは、ゲームをしたときからの疑問の場所。いくら、木の墓場のように見えたって、いくらオフシーズンだからって、一番狭い場所では100歩ほどなのだから、自殺を図れるほど人がいないのだろうか?もっとも、昭和50年台は冬行って、流氷を見てはしゃいでいたら、白い眼で見られていたなあ。昭和60年3月に紋別の商工会の人と話して、流氷が観光資源になることにようやく気づいたとおっしゃられていたから、トドワラもその時代(多分昭和50年代前半)だったら、こんなかんたのだろうか?

紋別の町

 

FCのような記念碑はありませんでした。が、左下の写真になにか似てません?これは、紋別のはるか北、猿払村の浜鬼志別にある、インディギルカ号遭難慰霊碑です。昭和14年、ロシアのインディギルカ号がここの沖で遭難し、約700名が死亡したという世界最大クラスの海難事故です。

紋別の町2

 

右の写真は、紋別の町ですが、この旅館は、渡辺惇一「流氷への旅」で出てくる小山旅館です。

札幌駅

 

FCの画像はキハ183系の塗装変更車なのですが、昭和60年頃、183系は短編成化のため、スラントノーズの運転台とは別に右の写真のような運転台(多分タネ車はキハ184)を造りました。その後、このマイナーチェンジ(というより新規に作成)されたのが、FCの車両だろうと思います。が、いかんせん、実際に見てないもので・・・

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