> 愛媛の散策へ > 松山の俳句・歴史・風土へ > 道後村めぐりへ |
今年の夏休みはスキあらば自由研究にしてやろうか? |
残りの全てを回ってきました。 かずくん倶楽部が回った順に掲載しています。 (撮影は特に記載がなければ全て出撃日) 7月29日午後1時〜午後5時半
17番岩堰:鮎寄せの堰音涼し宝川(酒井黙禅) 足立重信が岩を削って石手川を重信川に流す工事をした。酒井黙禅というのがいい。でも、結構この人松山市内をうろついているのですね。夏目漱石とは大違いで、最終的に松山に骨を埋めました。
16番風土記の丘:薫風や風土記の丘をかくてなほ(富田狸通) 句碑は右写真に見える。昨日の25番で述べた、伊予国風土記逸文の中でこの聖徳太子の碑文のことが記されている。「湯の岡側に碑文を立て,その立てた所を伊社爾波の岡」と詠んでいるのだが、かつての伊社爾波神社は湯築城付近にあったというから、風土記の丘ということから、このあたりに「聖徳太子の碑文」が隠されているのかもしれないし、ひょっとすると、ここは風土記の丘ではないというのかもしれない。
15番石手寺:鎌倉のむかしを今に寺の鐘(前田伍健) 前田伍健は、明治22年坂出市に生まれ伊予鉄道に入社、野球拳の開祖として名をはせている。が、石手寺には計98碑があるといわれている。その中からこの句が選ばれた。
14番義安寺:このほたる田ごとの月をくらべ見ん(松尾芭蕉) 句碑を探すのに時間がかかった。ちなみに、神社仏閣の場合、外車とか高級車が多い中で、この車は立派?
6番伊佐爾波神社:栗の花こぼれて居るや神輿部屋(河東碧梧桐) 社殿は重要文化財として指定されている。それにしても、河東碧梧桐としては、定型句だな、と思うのは私だけ?
5番宝厳寺:色里や十歩はなれて秋の風(正岡子規) 時宗の開祖一遍上人誕生地。この句の「色」は色づく木々とネオン坂の色とをかけたものだが、後ろに「秋の風」がある。単に「色」だけでは季語ではないようだ。現在のネオン坂は夜来たことがないのでなんともいえないが、いかにもうら寂しい感じがする。
7番湯神社:道後なる湯の大神の御社のもとにぬる夜となりにけるかな(与謝野晶子) 道後温泉の守り神として、大国主命と少彦名命が祀られ、昔から道後の湯が止まると、ここで湯祈祷が行なわれていた。なお、与謝野晶子は、この句の後ろに「鮒屋旅館にて」と書いたらしいが、当の「ふなや旅館」では全く痕跡なし。
4番円満寺:散と見し幻消て花に月(奥平鶯居) 3番が新規の碑であるのだが、これは鷺谷墓地である。坂を上っていく必要があるので、今日は飛ばしていった。この碑そのものは、梅滴(鶯居の俳号)翁の墓の裏面にあるらしいのだが、かずくん倶楽部は一般のお墓には踏み込まない主義である。
1番道後温泉本館:伊予の湯に汀にたてる霊の石これそ神代のしるし成ける(古歌) 句碑は道後温泉本館の北側隅にあり、案外見落としやすい位置にある。かつては、道後温泉本館前は車の往来が激しく、危なかったのだが、道路が後ろへ迂回するようになって良くなった。
8番子規記念博物館:足なへの病いゆとふ伊豫の湯に飛びても行かな鷺にあらせば(正岡子規) 鷺といえば、道後温泉の由来を意味する。足に傷を負った鷺が温泉で癒しているのを見て、その湯に何か効用があるのかと思って、同じようにしたところ、色々な病が治ったという話は有名である。これらのことを含め、道後温泉が日本最古の温泉とされている。この句は、正岡子規が晩年病のため、歩くことができなくなったことから、鷺のように道後温泉で癒したいとした句である。
9番道後公園:ふゆ枯れや鏡にうつる雲の影(正岡子規)、半鐘と並んで高き冬木哉(夏目漱石) 今回のリニューアルで碑がかわった。子規記念博物館にある碑である。正岡子規と夏目漱石が松山で暮らした日は、そう長いものではなかったが、なぜかこの二人の碑が並んでいると落ち着く。
10番湯釜薬師:寝ころんで蝶泊まらせる外湯哉(小林一茶) 小林一茶は松山には無縁かと思っていたが、結構松山に来ている。これは道後温泉本館の湯釜で、現存する最古のものは 奈良時代の天平勝寶年間(741-757)に造られて以来、 明治27年に新しい湯釜が据え付けられるまで使用されていた。
12番道後温泉駅:古町木屋町打ち過ぎて行けば道後の温泉場(大和田建樹) 伊予鉄道道後温泉駅、詩をよくよくみれば、これはかつての城北線そのまんまである。木屋町からは千秋寺口を通って、まっすぐ道後温泉へと向かっていたのが、当時の道後鉄道である。それにしても、最近坊っちゃん列車に乗らなくなったものだ。
13番放生園:春風やふね伊予に寄りて道後の湯(柳原極堂) からくり時計はかつての1億円ばらまき政策として造られたもの。各地悲劇、喜劇がある中で、さすがは松山市、堅実なものを造ったものである。
2番椿湯:日月照於上而不私神井出於下無不給(聖徳太子) 伊予国風土記逸文の中でこの聖徳太子の碑文のことが記されており、日本最古の金石文といわれているが、まだ発見されていない。 |