> 愛媛の散策へ > 松山の俳句・歴史・風土へ > 俳句の世界へ |
序章 松山の散策 散策・・・辞書を開くと、「これといった目的もなく、ぶらぶら歩くこと。散歩。」とある。私は本来旅好きである。しかし、普通にサラリーマンをしていると、毎週末盛大に出費して旅行するわけにも行かない。そこで、なるべくお金をかけないで、旅をした気分に浸りたいと思う。休日のヒマなときに亭主がパチンコにふけるよりはマシだろう、という言い逃れもある。が、歩く以上は街中にあるものに出会いたいと思う。 文学碑約410余、俳都松山には実に多くの碑が建てられている。また、松山は正岡子規を始め、柳原極堂、高浜虚子、河東碧梧桐など偉大な俳人を多く排出していることでも有名である。 失礼ながら、私は俳句に関してはよくわからない。正岡子規の「春や昔十五万石の城下かな」と聞いて、ああ、流れの良い詩だな、と思う程度である。が、幸い松山市内に坊っちゃん列車が復活して、さらに2編成目が落成した平成14年8月以来3年間、ついに毎週末かかさず坊っちゃん列車に乗り続けた。ついでに。「道後村めぐり」などもやってみた。これで、松山の歴史の表面が判らないはずがない。というより、素人ながらも、やってみようじゃないか?と思い始めた。まあ、専門家のような歴史探索はできないだろうが、今自分が立っているところに、かつて何があったかを知るだけでもいいではないか。 そのうえで、この俳句の碑というのは、散策をする上で貴重な一里塚となる。散策が精神的ストレス解消に良いことは間違いあるまい。休日に松山市内を意味もなく歩いて、あるいは自転車で移動して、その先に碑があれば、なんだか人生にしばしの目標ができたような気がしてくる。 さて、松山市教育委員会では、これらを「城下コース」「道後コース」「城南コース」「城西コース」「城北コース」の5コースに分け、合計133箇所の碑を選定している。これらの碑を目標として歩いてみれば、あるいは松山の歴史がわかるかもしれない。その後は自分で考えてみるのも良いかもしれない。これは、そのような考えを持って、当時5歳の長男「通称かずまる」と2人のでかずくん倶楽部で、あるいは親子3人で歩いた記録である。 従って、これは、松山の偉大な文学の先人たちを追いかけるというよりは、むしろ松山の地味な観光ガイドブック、あるいは単なる日記というのが正しいのかもしれない。ともかく、どうなるか、見ていただきたいと思う。 |
第1部 城下編 第1章 平成15年10月13日(月・祝) 3連休最後の日、私と妻とかずまるの親子3人で伊予鉄道郊外電車で自宅近くの衣山駅から石手川公園駅へと向かう。 石手川公園駅は文字どおり石手川の上に作られている。石手川沿いは岩堰あたりから結構公園が整備されてきている。水は市民に憩いの空間を与えるようだ。石手川公園駅に併設されている歩行者専用橋を渡ると、すぐに最初の碑が見えてくる。 24番:涼しさや西へと誘ふ水の音(内海淡節)松山市柳井町1丁目 内海淡節、いきなり、よくわからない人の碑へ来てしまった。これは困った。正岡子規とまでは言わずとも、最初くらいよく知っている人であってもらいたいものだ。などと言ったところで、我々も自分の都合で石手川公園駅へやってきたのだから、文句を言いたくても言う相手がいない。 が、それでは内海淡節氏に失礼である。ということで、虎の巻を見る。「城下コース」「道後コース」については、松山市教育委員会のホームページの解説と地図を持参している。内海淡節氏は文化七年(1810)に松山藩士の家に生まれ、桜井梅室氏に俳諧を学び、30歳で京都へ行き、晩年帰松したという。松山では現在の二番町に住んでいて、家の前を西向きに流れる水路があったという。この水路の向きと西方浄土をかけた辞世の句なのだそうだ。するどい!いきなり感心する。 石手川公園駅で下車した我々は、線路沿線に沿って一度松山市駅方面へと戻る。すぐに伊予鉄道の「煉瓦橋」をくぐる。この橋は石手川の土手に登る途中にあるもので、平成15年9月1日に松山市から「景観形成重要建設物」に指定された。「俳句の里巡り」とは直接関係ないが、私には大いに興味がある。 線路をくぐって、県立中央病院の方へ向かうと、それらしい寺がみつかった。が、寺はあっても、なかなか入口が見つからない。やっと見つけたら、寺内は近くの総合病院の職員駐車場となっていた。 29番:寺清水西瓜も見えす秋老いぬ・我見しより久しきひょんの茂(正岡子規)松山市泉町(薬師寺) 今度はいきなりメジャーな人のところに来た。「ひよん」とは、別名「イスノキ」といい、「マンサク科」、子規は「ひょんの茂哉」として夏の句としたのだそうだ。が、俗物な私は「いぬ」「ひょん」とあるのを見て、「八丈島のきょん」を想像した。それでは「ガ○デカ」である。俳句の重厚な世界に入っていると、突如として爆発してしまった。私に俳句は無理なのだろうか。 次の興聖寺までは、すぐの距離にある。ぶらぶらと歩くにはちようど良いコースである。 30番:こゝろざし富貴にあらず老の春(柳原極堂)松山市末広町(興聖寺) 柳原極堂は本名柳原正之で、子規と同年生まれ。「極堂」とは明治29年に子規から賜ったものだという。子規よりも遥かに長い90歳まで生き、自分の余生を子規顕彰にささげたという。というと、昭和32年没。私が生まれたのが、その5年後だから、子規も含めて、結構現代の話なのだと思う。柳原極堂といえば、私の元上司が彼の生涯について書したものがある。今度もう一度読み直してみようか。 31番:梅てのむ茶屋も有へし死出の山(大高子葉)松山市末広町(興聖寺) 興聖寺は聖徳太子が道後温泉を訪れた際に建立されたとされており、松山城の二代目藩主であった蒲生忠知の菩提寺である。 このため、忠臣蔵の事件の際、吉良邸を襲撃して、亡き君主の仇討を果たした赤穂義士47人のうち、大石主税以下10名は江戸の松山藩邸に預けられ、そこで切腹を命ぜられという。大高源五は赤穂義士として32歳でなくなったんですねぇ。今の世の中でよかったなあ、と思ったりもする。が、大高源五は俳諧に長け「子葉」と号したことから、大高子葉という。仕組まれた流れの中に突っ走っていった、主人の敵討ちとは別の世界で、俳句を読むという世界も考えてみると、不思議ではある。 32番:正岡氏累代墓、松山市末広町(正宗寺) いよいよ今回の散策の大御所「正宗寺」がやってきた。子規堂もあり、5箇所6個の碑が並んでいる。興聖寺からここへはごく近所。松山市駅に向かっていけば、すぐにわかる。というより、我々かずくん倶楽部はここにはよくやってきた。なぜなら、後述するように、ここにはかつての坊っちゃん列車の客車が展示されているからである。 まずは正岡子規の両親も眠る正岡氏累代の墓である。 33番:子規居士髪塔、鳴雪先生髯塔、松山市末広町(正宗寺) 子規居士髪塔の裏面には「明治37年9月19日樹」と書いてある。つまり、子規の没後3周忌に建てられたということになる。 鳴雪先生髯塔の裏面には「髯塔 昭和3年5月建」とある。鳴雪は大正15年2月20日没だから、はて?3周忌ということにはならないが、まあ、その頃に建てられたことになる。 34番:笹啼が初音になりし頃のこと(高浜虚子)松山市末広町(正宗寺) いよいよ高浜虚子が登場し、松山の俳諧の御大方が揃った。笹啼とは「ささなき」と読み、鶯が、まだ春のようにはうまく鳴けない様子を言うらしい。「ホトトギス」発足の頃を、鶯の「笹啼き」にたとえたとあるが、俳句の道とは、高尚なシャレであると言ったら失礼に当たるだろうか。しかも、17文字で季語があって、シャレがあるということは、とてつもないエネルギーの塊のように思えてならない。 35番:打ちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きがてにする ここにある客車が先に述べた「かつての坊っちゃん列車の客車」、伊予鉄道から寄贈された「ハ1型」客車である。その前に置かれた「小説坊っちゃんを書いた人」とある夏目漱石の顔があるが、なんとも生首のような気がしないでもない。 実際我々かずくん倶楽部は、かつてはここへよくきた。坊っちゃん列車がまだ1乗車1000円だった頃、坊っちゃん列車を見ては、ここで昼食をとったものである。今は坊っちゃん列車も1000円から300円に値下げされ、坊っちゃん列車に毎週乗るようになって、ここへ来る回数が減った。坊っちゃん列車が1000円から値下げされたと同時に、夏目漱石も1000円札から下ろされたというのがなんとも残念である。 というところで、雨が降り始めた。 これは困った。まあ、今日の天気は良いほうではなかったのだが、このまま降られると、今日の散策は終わり!になってしまう。 仕方なく、予定を変更することにした。当初の予定では、このまま中の川の中央分離帯にある碑を徹底的に巡る予定であったが、ともかく、雨がしのげる場所がほしい。ちょうど近くの松山市駅市内電車乗り場に碑がある。そこならば、当面雨がしのげる。雨がやまなければ、そのまま帰るという方法もある。 39番:城山の浮み上るや青嵐(正岡子規)松山市湊町5丁目(松山市駅前緑地帯) ここでしばし雨の上がるのを待つ。ちょうど坊っちゃん列車がやってくる。 この坊っちゃん列車は、まさしく小説坊っちゃんの中で「停車場はすぐ知れた。切符もわけなく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。」と紹介された汽車である。平成13年10月にディーゼル機関車として復元されたものである。さらに翌年8月には2両目の機関車が導入され、乗車賃も1000円から300円に値下げされた。以来我々は毎週坊っちゃん列車に乗車している。 それを見ていると、幸いにも雨が小降りになった。散策を続けられることになった。次の円光寺へは、銀天街から直接入ることができる。少々雨が降っていても行くことだけはできる。 38番:風呂吹を喰ひに浮世へ百年目、 前の句は「明月和尚百年忌」と前書きがある。子規が1896年に読んだ句で、明月和尚(1718〜1797)は円光寺で修行をしたという。「風呂吹」とはどうしても、「ふろふき大根」を思い出してしまうが、冬の季語なのだそうだ。雨は上がったようだ。 37番:粟の穂のこゝを叩くなこの墓を(正岡子規)松山市柳井町3丁目(法龍寺) 法龍寺は中の川通りを渡って反対側にある。法龍寺は現在幼稚園にもなっている。松山市内では結構寺が幼稚園を経営しているケースが多い。私はキリスト教(プロテスタント)幼稚園出身だし、かずまるは宗教とは無縁の大学系列幼稚園出身であるので、寺の経営する幼稚園というのはよく判らないが、まあ、今後もいくつかそのような寺に寄っていくことになりそうだ。 が、この法龍寺は元々「末広学校」という小学校で、正岡子規もここで学んでいたのだという。なんと歴史のある幼稚園であることか。 なお、ここのもうひとつの碑は「正岡家墓地跡」とある。はて?どこかで見なかったかと思ったのであるが、ここには昭和2年まで墓があり、その後は先ほど見た正宗寺に移されたのだそうだ。ああ、よかった。 28番:正岡子規母堂令妹邸跡、松山市湊町4丁目(中の川筋緑地帯) ここからは、片側3車線ある中の川通りの中央分離帯を行くことになる。正岡子規母堂令妹邸跡だから、昔はこの場所にあったのですよ、ということなのだろうが、とにかくここの碑へ行くには命がけになる。松山市教育委員会によると、場所を示すものですから、ということなのだろうが、碑を見せる気がないとしか考えられない。 27番:くれなゐの梅散るなへに故郷につくしつみにし春し思ほゆ(正岡子規)松山市湊町3丁目(中の川筋緑地帯) ここは正岡子規生い立ちの家跡ということで、17歳まで住んでいた。子規堂の前に「旅立ち」と子規が旅立つ姿の像があるが、まさにあれである。あの子規の姿は実はここでなされたものだ。当時は車通りが少なくてよかったことだろう、というより、こんな道はなかったはず。子規が今のこの場所を見たら、どう思うのだろうか。 26番:我ひとりのこして行きぬ秋の風(野間叟柳)松山市湊町3丁目(中の川筋緑地帯) この場所も命がけである。なにを書いているのかと思えば、「野間叟柳は、この碑からほど近くの市内北柳井町179に、子規より1年おくれて生まれた」ちょっと待て!ここに碑がある必要性はなんだ?説明してくれ!我々はなんで命がけで俳句の里巡りをせにゃならんのだ?と言ったところではじまらない。幸い今日は親子3人で来ている。かずまるを妻に見させて、信号の合間を縫って拝みに行く。 秋の川、過去に触れるも命がけ(かずまる父)お粗末! おおっ、ようやく私の1作目が出た。どこで出るかと心配していたが、やっと季語がついた。そういうところで、少々むしゃくしゃした気分を吹き飛ばして次へ行くことにする。 25番:浦屋雲林邸跡、松山市柳井町2丁目 浦屋雲林(本名寛制)の屋敷は700坪という広い屋敷のお庭には約210坪の大きな池があったという。実は本日最初に行った碑からは目と鼻の先である。伊予鉄道のレンガ橋にこだわったから後回しになったようなものである。 現在浦屋雲林邸はその跡をとどめていないというが、その跡地が現在のNTT社宅というのがものすごく納得できる。残っていればよかったな、と思った場所には、役所(NTTも元役所)や農協関係の建物が立つからな。伊予鉄道の跡地の場合は愛媛銀行ができるのは何故だろう。勝山町だけならともかく、立花駅南までもが・・・ 時刻は午後1時半、我々はここで遅い昼食をとることにする。今は無き立花橋南のコンビニで弁当を買って、石手川北側の公園に座る。どうせかずまるは次の22番の後、しばらくはここの公園で遊びたいというだろうから、23番へは私一人で行っておこう。 22番:囀や天地金泥に塗りつぶし(野村喜舟)松山市北立花町(石手川公園) 昼食後の一番疲れを感じるときにふと湧き上がる疑問・・・「野村喜舟は明治19年金沢市に生れ、上京して松根東洋城に師事し、昭和27年、東洋城の跡をついで、昭和51年12月までの25年間、俳誌「澁柿」巻頭句の選に当り、同誌を主宰した。(松山市教育委員会同サイトから引用)」なんで、そんな人の碑がここにあるの?と思ったら、松根東洋城が松山中学出身で、野村喜舟が昭和58年没だから、松山の地に碑を残すことになったのだろう。 23番:薫風や大文字を吹く神の杜(正岡子規)松山市北立花町(井手神社) 今の家に住む前に職場から帰るルートとしてよく通った井手神社であるが、そういえば、7月下旬に天神祭りが開かれていた。実際には、7月24、25日で天神さんにあやかろうと、人々は競ってお祭り当日に大きな墨書を奉納し、これを「大文字」といったのだという。 そうか、そんなにありがたい神社だったのか。 20番:新立や橋の下より今日の月(正岡子規)松山市新立町(金刀比羅神社) さて、我々はいよいよ石手川沿いに上っていく。旧国道11号の橋のところに金刀比羅神社がある。それにしても、松山市内を歩き回っていると、金刀比羅神社と三島神社の多いこと。 新立はこのあたりの地名であるが、この橋が新立橋だったのか?よく使った割には知らなかったものである。この橋は寛政1年(1789)、宮内与八が石手川最初の橋として建設したという。が、元々、石手川は足立重信が作った人工の水路である。最初の橋というのがイマイチ理解できないが、そのくらい歴史があるというのであろう。 21番:馬をさへなかむるゆきのあしたかな(松尾芭蕉)松山市新立町(多賀神社) でました。寺の幼稚園第2弾。しかも以前住んでいたアパートの子供が通っているという。が、「この句は、芭蕉が貞享1年(1648)江戸から故郷へ帰る途中、熱田の桐葉の亭での作で、「旅人を見る」として、この句がある(中略)芭蕉を尊ぶ人々が、なおも、この地には多かったのである。(松山市教育委員会)」はあ、そうですか?という気がしないでもない。 しかも、この寺は川側からは「不要者立入禁止」と書いてある。我々は不要者かい?と思って、先に20番へ行って、道側から行ったらなんなく入れた。 19番:正風の三尊みたり梅の宿(小林一茶)松山市勝山町1丁目(国道11号緑地帯) そうか、小林一茶は松山へ来ていたのか。と、急に小林一茶に対して親近感を覚える。何しろ、最後に来て、松尾芭蕉、小林一茶といえば、全国区である。なんで、松尾芭蕉?と思ったところに小林一茶が実は松山へやってきていたということは、ただそれが判っただけで、なんとなく、今日ここへやって来てよかったなあ、と思うのであった。 が、「魚文宅の前には碑を立てる余裕がないので、道路事情のため、この地へ建てたものである。(松山市教育委員会)」それで、国道11号の中央分離帯なのか?この碑へ行こうとすると、命がけになるのか? と、なんだか、散策を続けるうちにグチっぽくなるのは気のせいだろうか。ともかく、今日は「城下コース」47箇所中21箇所の碑を巡って、第1日目を終わりにする。 |