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第1部 城下編(2) 第2章 平成15年10月19日(日) 「俳句の里巡り」の第1回目を観光いや敢行してから1週間後、前日に新居浜市の太鼓祭りに出かけたため、かずまると2人で、日曜日の観光いや敢行(しつこい!)となった。 伊予鉄古町駅10時41分発の坊っちゃん列車で道後温泉へと向かう。松山では週末、道後温泉や松山城付近に、夏目漱石の小説「坊っちゃん」に扮した街角案内人がいる。ちょうどかずまるを特にかわいがってくれた「マドンナ」のお姉さんが今日で終わりなのだと言う。 「マドンナ」のお姉さんに見送ってもらって、市内電車に乗り、上一万駅で下車する。実のところ、JR松山駅で「鉄道の日」の記念イベントがあることもあり、そちらのほうのウエイトが高い。また、来週再び親子3人で「城下コース」を回ることにしているが、今日のところは、まあ、来週巡りやすいような下準備と言うところであろうか。 六角堂。おおっと、今日はよっぽどやる気がないのか、いきなり何の関係のないところから始まってしまった。ここには松山名物「狸伝説」がある。六角堂には昔榎の木があって、そこに住んでいたイタズラ狸が、手に持ったドクロで人をたぶらかすという話である。松山には他にも結構「狸伝説」があって、それだけでひとつの話になってしまうだろうから、これ以上は触れないこととにしよう。 その六角堂を過ぎて、通りをひとつ西側へ入ると、そこに東雲公園がある。今日初めての碑である。 17番:夕桜城の石崖裾濃なる(中村草田男)松山市東雲町(東雲公園) 中村草田男もあんまり知らない。前回同様、最初に回るところで神経を使ってしまう。それではいけないので、帰って調べてみると、明治34年7月24日、当時の中国福建省アモイの日本領事館で生まれ、本名清一郎、4歳のときに母親と郷里松山へ帰ったという。彼には、もうひとつ旧中島町の松山北高校中島分校の校門に碑があるらしい。「俳句の里巡り」全133箇所を巡ったとしても、松山400余の碑の3分の1にしかならないという現実が立ちはだかる。 18番:高浜虚子住居跡松山市一番町1丁目 ここは、前回帰りのバスを待ったところのすぐ裏手である。注意をしていれば、すぐに見つかったのだろうが、まあ、それもご愛嬌なのだろう。 秋の野に、カズも歩けば碑に当たる(かずまる父)俳句になっとらん! 松山市教育委員会の「俳句の里巡り」によると、ここは高浜虚子の生家ではなく、何度か引越しをして、子規がたずねてきた場所だと言う。が、同サイトによると、虚子の生家は「子規生い立ちの家(湊町4丁目1番地)の北隣りにあったが・・・」とあるのに、ここへ転居してから、河東碧悟桐に紹介をしてもらっている。結局子規の南隣に生まれても、それだけでは子規とはつながらなかったらしい。 というところで、今回の散策は中断し、これからJR松山駅の鉄道記念行事へと向かう。本日の句碑巡りは2箇所だが、準備は上々、いよいよ次回の散策が「城下コース」のメインイベントとなりそうである。 |
第3章 平成15年10月25日(土) 「俳句の里巡り」の第3回目は親子3人での行軍となった。先週同様、伊予鉄古町駅10時41分発の坊っちゃん列車で一度道後温泉へ行ってから、市内電車で市役所前電停へと引き返す。妻が「坊っちゃん列車に乗ったのは何か意味があるの?」とたずねられた。そんなものあるかい! 1番:さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ(河東碧梧桐)松山市二番町4丁目(市役所前) ついに1番へやってきた。現在は地下駐車場への階段に隠されて少々見えにくい。が、なぜ1番が河東碧梧桐なのだろうか。確かに、肖像画を見ると、彼が一番凛々しい。が、それで1番のはずはあるまい。元は高浜虚子の句と同様松山刑務所内にあったものを、彼の17回忌の際に入所者たちが運んだものだと言う。 2番:わかるゝや一鳥啼て雲に入る(夏目漱石)松山市一番町4丁目(NTT四国支店前) これは夏目漱石が、明治29年に熊本の第五高等学校教授として、松山を去るときに読まれた句である。夏目漱石が松山に滞在していた時間は短く、小説「坊っちゃん」が書かれたのも、松山を離れてから10年程度経ってからといわれているが、その一瞬の時が松山を坊っちゃんの街として印象付けさせたのだからすごいものである。もっとも、小説「坊っちゃん」の中では、松山はむちゃくちゃに書かれていて、後日正岡子規に「君のふるさとをひどく書いて申し訳なかった」旨の書簡を送っているという。 さて、この場所であるが、現在のNTT四国支店は、夏目漱石が松山へ赴任した当時は松山中学であった。つまり、小説「坊っちゃん」の中で、坊っちゃん列車に「ごろごろと5分ばかり乗って」降りた駅から人力車でやってきた場所がここであったということになる。 しかし、ここである矛盾が発見される。のちに、小説の中では、中学校からぶらぶらとしながら帰宅する場面が出てくる。「それから学校の門を出て、すぐ宿へ帰ろうと思ったが、帰ったって仕方がないから、少し町を散歩してやろうと思って、無暗に足の向く方をあるき散らした。県庁も見た。古い前世紀の建築である。」現在、NTT四国支店と県庁は国道11号をはさんで向かい合っている。現在の県庁本館は昭和になって建てられたが、その前の建物も現在の位置にあった。つまり、なぜわざわざ「県庁も見た」ということになったのだろうか。 3番:松風会ゆかりの松山市立高等小学校跡、松山市二番町4丁目(番町小学校) 正岡子規直系の日本派俳句結社「松風会」は当初松山市立高等小学校教員が会員だったこともあり、その跡地であるこの場所に建てられた。色々な意味で、この場所は愛媛の学問、文化の中心だったのであろう。 しかし、ここで再び疑問が生じる。松山市若草の合同庁舎前にある碑には「愛媛教育草創の地」と書かれている。かつては、ここに「師範学校」があって、小説「坊っちゃん」にもでてくる。ちょうど主人公「坊っちゃん」が喧嘩をした学校である。が、俳句の里巡りでは、この「愛媛教育草創の地」に関する記述がない。 4番:夏目漱石ゆかりの旅館「きどや」、松山市二番町4丁目 番町小学校から南へ少し下がると、同じ名前の飲食店がある。その東側あるのが、小説「坊っちゃん」で主人公が最初に泊った「山城屋」のモデルとなった旅館。夏目漱石自身もこの宿屋に泊まっている。つまり、小説の中で松山に到着した坊っちゃんは、一度松山中学に行って、この旅館にやってきた。 5番:河東碧梧桐誕生地(静渓邸の跡) 松山市三番町4丁目 4番からはそのまま少し東側に行くとある。このような碑が街の中いたるところにあるというのがすごいと思う。 河東碧梧桐(本名・秉(へい)五郎)は、明治6年2月26日、父静溪の5男として、ここに生まれた。彼が17歳の時に子規がここへやってきて、彼とキャッチボールをしたという。正岡子規が野球殿堂入りしたということは、ここが日本における野球発祥の地かもしれない 愛媛県が野球が盛んで、特に高校野球の活躍が目覚しいことは、このような土壌があったからだと思うが、まあ、その中で特に西日本は日没が遅いと言うことも一理あると思う。夜間照明が当たり前になった今、愛媛の高校野球は、全国一ということはなくなったが、それでも時に全国に名を残す。野球の土壌が消えてなくならない証拠だ。 6番:大原観山(おおはらかんざん)邸跡、松山市三番町3丁目 大原観山は本名有恒で加藤家の次男として三津御舟手加藤重孝の次男として出生した。姉艶枝が嫁いだ大原恒固との間に子供がなかったため、観山が養子となった。大原観山と妻重との間にできた長女八重が正岡家へ嫁いで正岡子規を生んだ。そう書けば正岡子規の生誕は偶然のように思われるが、生誕に関しては人皆偶然だと思う。だが、偶然にしても、当時の松山には俳句に心を寄せる人が多かったものである。 7番:夏目漱石寓居・愚陀仏庵の跡松山市二番町3丁目(料亭天平前) 現在万翠荘の上にある愚陀仏庵は復元されたことは知っていたが、なんとなく現在の東雲学園のあたり、つまり大街道の北側にあるような印象があった。が、「きどや」から移ってきた愛松亭と混同していた。夏目漱石はそこからこの場所へ引っ越してきていた。そこへ従軍吐血して療養後の正岡子規が転がり込んで、52日間二人が過ごしたということはあまりに有名である。 我々は、この後近くの店で昼食をとる。そして、いよいよ本日のメインイベント萬翠荘5碑が近づいてくる。 10番:夏目漱石の書簡碑松山市一番町3丁目(萬翠荘入口) 小説坊っちゃんの中で、坊っちゃんは「山嵐」の勧めで、「山城屋」から「町はずれの岡の中腹にある家で至極閑静だ。主人は骨董を売買するいか銀という男」の場所へ引っ越してくる。夏目漱石はこの場所にあったという愛松亭に住んでいたから、それをモデルにしたのであろう。 現在この道は万翠荘へ続く一本道となっている。が、かつては結構民家が密集していたのかもしれない。 小説坊っちゃんでは、主人公がここから「住田」と表現された道後温泉へ列車を使って出かけている。当時は大街道から道後温泉まで後に伊予鉄道に買収される「道後鉄道」が路線を持っていた。この頃の地図を見ると、大街道から東側は急に人家が減っているような表記になっているから、あたりにさえぎるものもなく、道後温泉へと向かっていたに違いない。 だが、小説の中で、一度だけ「住田」からの帰りに「古町」で下車したという記述がある。当時の道後鉄道は、先の大街道〜道後間の他に道後から愛媛大学の北側を通って、木屋町電停へと抜け、現在の萱町6丁目電停(当時は「三津口」)までの路線も持っていた。 小説坊っちゃんの中では、松山の実際にある地名が出てくるのは珍しい。まるで、ノストラダムス「1999年7の月」のようである。だから、夏目漱石としては、意図的に一番町を「古町」、松山中学を先の「師範学校」としたのではないか、とかつて意見をしたことがある。そうしたら、そのスジの先生方から総すかんをくらった。 秋の夜探せば深い古町かな(かずまる父)なんじゃこりゃ! 8番:城山や筍のびし垣の上(柳原極堂)松山市一番町3丁目(萬翠荘への途中) 柳原極堂没後1周忌をしのんで建てられた句碑。色々な書物を見ていると、柳原極堂は自分の句碑を建てることをよしとせず、それよりは子規を・・・という人だったらしい。 9番:なつかしき父の故郷月もよし(高浜年尾)松山市一番町3丁目(萬翠荘への途中) 作者は高浜虚子の長男で、昭和26年3月号から「ホトトギス」を主宰した。そして、同誌1000号発行半年前の昭和54年10月26日に78歳で没した。 12番:秋晴の城山を見てまづ嬉し(今井つる女)松山市一番町3丁目(萬翠荘の裏山) 今井つる女は高浜虚子の次兄池内政夫の三女、のちに旧波止浜町長今井五郎と結婚する。 妻曰く「この句が一番判りやすい」でも、判りやすくて、思いが人に通じるのであれば、それが一番の秀作だ、と思う。この裏手に愚陀仏庵がある。ちょうどお茶の席が設けられていたが、かずまるがいては落ち着かないため、辞退した。 その後、萬翠荘に立ち寄って下る。このあたり、昔は民家が立ち並んでいたのだろうかと不思議に思う。久松家の別荘として萬翠荘が建てられてから、民家がなくなったようだ。 13番:風ひそひそ柿の葉落としゆく月夜(野村朱燐洞)松山市喜与町2丁目(三宝寺) さあ、困った。三宝寺が見当たらない。人に聞いても要領を得ない。秋山兄弟の生家に出てしまった。間違ったからといって、ロープウェイ街と八坂通りを行ったり来たりするには、それまで結構街中をのらりくらりと歩いてきたものとしては、ロープウェイ街の坂が結構こたえる。思ったより奥まった場所にやってきて、ようやく見つける。この後、東雲神社の階段があるというのに大丈夫だろうか。 野村朱燐洞は明治26年に松山市小坂町に生まれ、自由律俳句で活躍したが、26歳で急死する。後に種田山頭火が松山へ立ち寄ったのも、彼の墓参りとされているが、同じ自由律俳句を詠う者としては、気持ちもわからないでもない。 14番:牛行くや毘沙門阪の秋の暮(正岡子規)松山市大街道3丁目(東雲神社下三叉路) 西に松山城へ上るロープウェイ入口がある。このあたりは城の鬼門であり、昔、毘沙門天が祀ってあったという。「風水都市松山」という著書もあるくらいだから、そのあたりは考えられて街づくりをしたのであろう。ちなみに、城の北東部に谷があるが、あのあたりが首切り場だったという説がある。今は分譲マンションが立ち並んでいる。 15番:遠山に日の当りたる枯野哉(高浜虚子)松山市丸之内(東雲神社) 東雲神社は松山藩十一代藩主松平隠岐守定通が建立したもので、天保11(1840)年12代藩主隠岐守勝善公長者ヶ平に社殿をおいたという。戦争で消失したが、昭和46年西堀端にあった松山大神宮を奉遷し、昭和48年焼失していた社殿を再建したという。先に、このあたりは城の鬼門とあったが、この東雲神社はやはりそれらを考慮して造られたものだと思っていたが、なんだか元々は南西の方向に縁のある神社のようだ。いよいよ今回のクライマックス、東雲神社に登ることになる。石段を踏みしめて、ようやく碑までたどり着く。 16番:東雲のほがらほがらと初桜七十九(内藤鳴雪)松山市丸之内(東雲神社) 内藤鳴雪もまた、私のよくわからない人である。仕方がないから虎の巻に出ていただく。江戸の松山藩邸で生まれ、本名素行(なりゆき)という。子規との交流の中で45歳から俳諧への道を歩む。45歳かあ。 これで、松山市中心部は全て回った。後は、花園町にある正岡子規誕生地へ行けば、今日の散策は終わりである。ロープウェイ街を下る足が重い。途中、なぜか道筋に井戸がある。かずまるは井戸を見たことがない。面白がって井戸で水を汲む。 秋の水乾いた道に流れ込む(かずまる父)道を道路と食道(つまりのどの渇き)に読んでくれ! 大街道から市内電車に乗る。 40番:正岡子規誕生地松山市花園町(電車通西側) 誕生の地というよりもお墓かと思った。正岡子規の出生場所は、伊予国温泉郡藤原新町とあり、後、松山市新玉町1丁目8番9番地、現、花園町3番5号とある。現在の新玉小学校はかなり西へ移っている。また、私が以前住んでいた宮田町も新玉校区だったため、新玉といえばどうしても、現在のコミセンと大手町を中心とした場所という気がする。が、そういえば、唯一新玉と呼ぶ地名がある。コムスの隣にある新玉公園である。そういう気でいたから、なんでここが新玉公園?と思ったものである。かつての新玉はもっと東側の意味を持っていたようである。 本日の句碑巡りは全17箇所、「城下コース」47箇所中40箇所の碑を巡り、あと7箇所は、JR松山駅から本町6丁目へと舞台を移すことになる。 |