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第1部 城下編(3) 第4章 平成15年11月3日(月・祝) 3連休の最終日、城下編残す7箇所を制覇する予定であったが、あいにく朝から雨が降っている。この11月3日であるが、少なくとも私の記憶としては、この日に雨が降ったことはない。にもかかわらず、これで3年連続の雨である。一昨年からこの日が、かずまるの幼稚園のバザーである。土砂降りの中、なにが悲しくてテントの中でうどんを食べなけりゃならんのだと思ったものである。では、今年はどうかというと、昨日バザーがあったのだが、これまた午前中土砂降りであった。 さて、当初は午後から天気が回復するはずであった。が、なかなか雨がやまない。最近は直接雨雲レーダーを見て判断できる。すごい時代になったものだ。が、午後3時を過ぎてようやく雨が上がった。本来なら、別に来週に延期しても誰も困ることはない。が、一度行こうと思って邪魔されたら、なんとなく反骨精神が目覚めるものである。 3時30分過ぎにようやく親子3人で出発する。が、200メートルも行かないところで、再び雨が降り始める。すでに気象レーダーからは雨雲は消えてしまっている。小さい雨雲ならば、そんなには降るまい。と、近くの書店で雨宿りをした我々は少々甘かった。レーダーで見えないほどの雲でも、降るときは降るのである。なかなかやんでくれない。そのうち、15分ほど遅れていたバスが4時頃に通り過ぎた。次に行くべき場所は、このバスで行くのが最も楽であった。 これで万策尽きたかと思ったが、雨が上がった4時20分頃に碑をめざして歩き始める。まずは、この場所から1キロほどのところにある本町6丁目の松山市保険センター前である。 47番:三津口を又一人行く袷哉(正岡子規)松山市萱町6丁目(松山市保険センター前) 伊予鉄道が松山から三津まで鉄路を敷いたのは明治21年10月、その頃の時刻表が「子規堂」の坊っちゃん列車客車の中にあるが、三津口という駅がある。この三津口はその名のとおり、三津への入口であった。 当時の三津口駅は現在の城北線萱町6丁目の古町側ホーム付近だったという。明治28年に道後鉄道が「三津口」に終着駅をつくったのが、城北線萱町6丁目の本町6丁目側ホーム付近。その後松山電気鉄道が道後温泉〜南堀端〜本町〜古町〜三津間を開業したときには、すでに伊予鉄道の古町駅は現在の場所に移転していた。伊予鉄道と松山電気鉄道が競合している様子の絵を見ることがあるが、当時単線だった郊外電車側に坊っちゃん列車、萱町6丁目側の線路に電車、そしてその上を立体交差で抜ける松山電気鉄道の電車が印象的である。その場所は現在の古町駅北側にある踏切であって、北向きに見たものであると思って間違いない。 さて、小説坊っちゃんの中では、「それからかなりゆるりと、出たりはいったりして、ようやく日暮方になったから、汽車へ乗って古町の停車場まで来て下りた。学校まではこれから四丁(約450メートル)だ。訳はないとあるき出すと、向うから狸が来た。狸はこれからこの汽車で温泉へ行こうと云う計画なんだろう。」と書かれている。この古町というのは一体どこだろうか。 当時、道後鉄道は道後温泉〜大街道間と道後温泉〜城北経由三津口間に鉄道を敷いている。坊っちゃんの住んでいたところは一番町界隈だから、大街道のはずなのだが、まぜかここで古町と出てくる。小説坊っちゃんの中では、松山に関する現実の地名は出てこない。松山という地名もない。それでいて、なぜ「古町」なのか。 46番:萱町や裏へまはれば青簾(正岡子規)松山市萱町4丁目(大三島神社) 大三島神社は久万ノ台にもある。松山市内には三島神社、大三島神社、素鵞神社などがたくさんある。だが、11月の落日は早い。急がなければ、今日中に7箇所は行けない。次の43番、44番阿沼美神社にたどり着いたときには、かなり暗くなっていた。すでに北側の碑は暗くて撮影できない。タイムオーバーである。 秋時雨、バスにも振られ時間切れ(かずまる父)はぁ?「れ」だけ? 43番:庚申庵(こうしんあん)松山市味酒町2丁目 庚申庵は、俳人栗田樗堂が、寛政12年(1800)、52歳の時に建てた庵で、昭和24年9月17日、県指定文化財・記念物の指定を受けた。最近立て替えられ、松山観光を巡ることのできるボンネットバス「マドンナバス」も立ち寄るようになった。 この後、最終目的地であるJR松山駅へと向かったが、すでに夜の帳が下りていた。今回回れなかった4箇所は改めてまわることにしよう。まあ、こういうこともあるさ。 |
第5章 平成15年11月8日(土) いよいよ、俳句の里巡りも「城下コース」の最終回となった。実は前夜、夢を見た。道後温泉駅で坊っちゃん列車のI運転士と話し込んでいて、坊っちゃん列車に乗ろうとすると、発券カウンターの女性に「満席です」と言われた。がっくりとして、坊っちゃん列車を見送りながら先回りをすると、坊っちゃん列車の車内ではなぜか酒盛りをしていて、その後ろをM車掌がごみを拾っていた。 まあ、つまらん話は終わりにするが、古町駅に行くと、ホームで待っているのは1人だけだった。ああ、よかった。乗れそうだ、と思うまもなく、「坊っちゃん列車運休のお知らせ」の張り紙がある。ぎょぎょ!と思っていると、坊っちゃん列車のK車掌が「すみませんねぇ、これは昨日のです」と言って、張り紙をはがした。なかなか昨日の呪縛から解けないようだ。 道後温泉から伊予鉄道の本町線で本町3丁目電停まで移動し、昨日行くには行ったが、なんにも見えなかった43番、44番阿沼美神社へと向かう。 45番:浮雲やまた降雪の少しつゝ(栗田樗堂題)松山市味酒町3丁目(阿沼美神社) 栗田樗堂題といえば、先日回った庚申庵を建てた人である。また、阿沼美神社は松山城のある勝山の山頂にあった神社で、勝山三島大明神とも呼ばれていたという。結局ここも三島神社のようだ。毎年10月7日の秋祭りには、地味な松山の秋祭りの中で、結構勇壮なところを見せてくれる。 44番:さまさまの事おもひ出す桜かな(松尾はせを)松山市味酒町3丁目(阿沼美神社) ここでいう「松尾はせを」とは松尾芭蕉である。以前新立のお寺に松尾芭蕉の碑があって、松山の地でも松尾芭蕉に思いをはせる人が多いとあったが、これもそのひとつだろうか。栗田樗堂題へは小林一茶が訪ねてきたとあるのだから、彼の碑があった方が落ち着くような気がしないでもない。 41番:石鎚も南瓜の花も大いなり(富安風生)松山市大手町2丁目(JR松山駅前南側) 富安風生は愛知県八名郡金沢村出身で、本名謙次。明治43年逓信省に就職したが、翌年喀血し、療養生活を送る。大正8年「ホトトギス」初入選する。昭和12年5逓信省を退官し、このとき四国旅行をしているが、そのとき新居浜に上陸して読んだ句である。 当初は松山駅前ロータリーの中にあったという。以前は伊予鉄市内電車かが大手町側から松山駅前に右折する際には、緑地があって、一部専用軌道になっていた。昭和55年の駅前広場の整備事業で現在の場所に移された。 42番:春や昔十五万石の城下哉(正岡子規)松山市大手町2丁目(JR松山駅前南側) この碑が今回の散策の最終ポイントとなった。この句なら誰でもわかるであろう。城下編の最終回として一番ふさわしいのかも知れない。それにしても、かずまるは碑の前で何をポーズつけているのだろうか。 ただ、15万石というのがよく判らない。松山といえば20万石である。ちなみに、小説坊っちゃんの中では25万石と書かれている。が、その割には、この15万石が議論されることはない。まあ、それで良いのかもしれない。 秋の暮、残り5万が見つからず(かずまる父)罰当たりな句? 秋や昔、漱石と子規で20万(かずまる父)ノーコメント? ともかく、城下編が終了した。次は道後編である。こちらは、「道後村めぐり」と重複するところが多そうだ。いったいどのような散策になるのだろうか。 |