松山の句碑巡り

 
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第2部 道後編(1)

第1章 平成15年11月8日(土)

城下編全47碑がようやく終わった。城下編最終日は、坊っちゃん列車で古町から道後温泉へ行き、再び本町まで戻ってきたわけだが、実はこのとき道後温泉では、道後編5碑を回ってから本町へ出かけたのであった。

この道後編は、「道後村めぐり」という、道後温泉の道後商店街振興組合が「道後村役場村民課」というのを組織してつくったものである。「道後村めぐり」はひらがなであるが、「俳句の里巡り」は漢字である。それはどうでもよいことであるが、ともかく、今回はその「道後村めぐり」と重複する場所が多い。「道後コース」は全37箇所。一体どのようなものになるのだろうか。

この日、坊っちゃん列車で道後温泉に到着し、しばしからくり時計の前でくつろいでいた。ちょうどその前に「俳句の里巡り・道後コース」の5番があった。かずまるがとっとと走っていく。というわけで、ついでに1番から5番までの近くを回っておくことになった。

5番:春風やふね伊豫に寄りて道後の湯柳原極堂)松山市道後湯之町放生園

放生園はもとは松山藩主によって作られた池で、御手洗川の水を引き入れていたという。石手川の本流も以前はこの近くを流れていたはずであり、足立重信が現在の石手川に付け替えた後は水量も減っていたことだろう。

さて、俳句と言うものを全く知らずにいながら、前回まで城下コースを回っていたのであるが、そんな私でも、俳句を読むとくらいはできるようになった。が、まだまだ内容はよくわからない。しかし、柳原極堂といえば、「私の碑をつくるくらいならば子規の碑を」というのをよく耳にしたが、その割には柳原極堂の碑も結構存在する。

2番:ふゆ枯や鏡にうつる雲の影(正岡子規)
半鐘と並んで高き冬木哉(夏目漱石)
松山市道後公園(子規記念博物館前)

子規記念博物館にある碑である。正岡子規と夏目漱石が松山で暮らした日は、そう長いものではなかったが、なぜかこの2人の碑が並んでいると落ち着く。

3番:寝ころんで蝶泊らせる外湯(小林一茶)松山市道後公園(子規記念博物館前)

小林一茶といえば、どちらかというと貧困の句というイメージが湧くのだが、結構松山へもやってきている。庚申庵で出てくる俳人栗田樗堂をたずねてきたときに読んだ句である。

1番:足なへの病いゆとふ伊豫の湯に飛びても行かな鷺にあらませば(正岡子規)松山市道後公園(子規記念博物館前)

鷺といえば、道後温泉の由来を意味する。足に傷を負った鷺が温泉で癒しているのをみたことを起源とし、道後温泉が日本最古の温泉とされている。この句は、正岡子規が晩年病のため、歩くことができなくなったことから、鷺のように道後温泉で癒したいとした句である。でも、これは短歌ですね。

4番:元日や一系の天子不二の山(内藤鳴雪)松山市道後公園(公園西入口)

内藤素行の70歳を祝って建てられた碑。ただ、道後公園といえば、湯築城跡というイメージが大きい。戦国の世界の中でも、少々時代は違うが、赤穂浪士でさえ、句を読んでいたのであろう。現代の世知辛い世の中での時の過ごし方を考えさせられる。

秋惜しむ、強者たちの出会いかな(かずまる父)おそまつ!

 
第2部 道後編(2)

第2章 平成15年11月15日(土)

今日は道後から西側の制覇をしようと思う。古町発の坊っちゃん列車始発便で親子3人道後温泉への客となる。今日の天気は曇りのち雨。正午過ぎには雨が降り始める予報である。

今日の坊っちゃん列車は、この後松山市駅へ行ったところで、俳句に関するテレビ撮影があるのだそうだ。そこで坊っちゃん列車の車掌も1句読むことになったのだが、彼の句は見事に上司に却下され、目下上司の考えた句を覚えているところだそうだ。

今日は団体客が多いのだそうで、坊っちゃん列車専用引込み線の前には長椅子が構えられている。また、坊っちゃん列車を覗き込む人々も多い。そして、からくり時計の前にはテントが張られていて、「朝市」が開かれていた。我々も坊っちゃん団子のおすそわけをいただく。民放のカメラも入っていた。

6番:伊予とまうす国あたたかにいで湯わく(森盲天外)松山市道後湯之町(放生園)

森盲天外は本名森恒太郎で、旧余土村の生れ。盲目のハンディの中で、県議会議員、道後湯之町長もつとめたという。

この碑については、なぜか番号がなく、前回見逃してしまった。ということで、今回もここが出発点になる。

25番:色鳥のいろこぼれけりむら紅葉(黒田青菱)松山市祝谷東町(常信寺)

常信寺は持統4年(690)持統天皇の命により法相宗の神宮寺として建立され、本尊に阿弥陀如来を安置した。その後、法相宗から真言宗に、更に松山城築城後に、松山城の鬼門に当たることから鎮護のため、天台宗に改宗している。この寺はトイレがきれいで、我々としては大変気に入っている場所のひとつである。「道後村めぐり」ではこの後「瀬戸風峠」の難関が待っているのだが、道後コースには「瀬戸風峠」はなく、そのまま西へと進む、って、誰かの句になかったったけ。

24番:東風(こち)の船高浜に着き五十春(酒井黙禅)松山市祝谷東町(松山神社参道右)

松山神社は菅原道真を祀る社と徳川家康を祀る東照宮を合わせた神社である。今日は「七五三」の日。それらしき親子連れが神社に入っていった。我々は「道後村めぐり」の途中、境内で弁当を広げさせていただいたこともある。

23番:しろ山の鶯來啼く士族町(高浜虚子)松山市祝谷東町(松山神社参道右)

26番「俳句の道」は、南町県民文化会館からまっすぐ北へと向かう道である。いつでも行けそうなので今日は無視し、松山神社から護国神社までを次の道後公民館祝谷分館を通るために、北側へ迂回した。が、これがなかなか見つからない。県道バイパスができたため、街の形が変わってしまったように見える。

22番:春光や三百年の城の景(酒井黙禅)松山市祝谷5丁目(道後公民館祝谷分館)

結局は、人に訪ね歩いたところ、松山市の住宅地図を見せてもらって一件落着する。が、かなり南側をうろついていたらしい。

この句が読まれたのが昭和37年(1962)、おおっと、私の生まれた年だ。で、坊っちゃん列車では「加藤嘉明は8年の歳月をかけて天守閣を、25年の歳月をかけて城下町松山を築きました・・・」と説明があるのだが、3層の松山城天守閣築造は久松定行の代、寛永19年(1642)だという。その差320年かぁ、まあ、誤差の範囲なんだろうな。

以上、2碑だけを回って帰宅することになる。

秋の野に、20も5万も誤差のうち(かずまる父)再び罰当たりな奴!

27番:熟田津爾船乘世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜(額田王)松山市御幸1丁目(護国神社万葉苑上)

「七五三」で境内は騒然としている。みんなスーツ姿で重々しい雰囲気の中、場違いなかずくん倶楽部が行く。出店も出ていて、これ以降かずまるは「メロンパンナ」のお面をかぶって登場。

護国神社といえば、ともすれば、戦争問題の対象となってしまい、愛媛県でも「玉ぐし訴訟問題」にまで発展したことがある。「愛媛万葉苑は護国神社の西側にある植物園で、郷土植物園として開園した。特に珍しい植物群、と言うわけではないのだが、かなりの種類の植物が植えられている。

28番:鐡鉢の中へも霰、春風の鉢の子一つ、濁れる水のなかれつゝ澄む(3句とも種田山頭火)松山市御幸1丁目(一草庵)

「漂泊の俳人」と評された彼の自由詩は、本当に自由な句が多い。今朝の坊っちゃん列車車掌に代わってこの句を・・・「鐡体の外は霰、絶えがたし」

種田山頭火、一草庵といえば、結構有名だし、最近走り始めたボンネットバスにも一草庵のバス停がある。何度もここへ行っていると、県外ナンバーの車が停車していたりして「ここが一草庵ですか?」と尋ねられることもある。自家用車で巡るような場所ではないことは判っているが、そうしてまでやってくる観光客への配慮も必要だと思う。

30番:金色の仏の世界梅雨の燈も(村上杏史)松山市御幸1丁目(千秋寺)

中国の帰化僧によって開かれた寺で、当時は中国風の七堂伽藍をはじめ、20を超える建物で代々松山藩主の厚い保護下に置かれていた。道後鉄道が道後温泉から城北方面経由で三津口まで運転開始したときも千秋寺前という停車場があったことを考えると、かなり力を持っていたといえるのではなかろうか。

29番:山本や寺ハ黄檗杉ハ秋画をかきし僧今あらず寺の秋(正岡子規)松山市御幸1丁目(千秋寺境内)

千秋寺境内のトイレもよく手入れができている。また、我々のために、と言うわけではないのだろうが、弁当を食べるのに便利な休憩所まで作ってくれている。

31番:伊佐爾波の丘めぐる水にこだましてあかつきいで湯の太鼓鳴りいづ(引田義定)松山市御幸1丁目(千秋寺)

32番:萩静かなるとき夕焼濃かりけり(森薫花壇)松山市御幸1丁目(東栄寺)

東栄寺を出て、来迎寺へ向かう途中で案の定ぽつりぽつりとはじめる。城北方面で残るは4箇所5碑である。が、どう考えても全てを回ることはできないと思われる。ということで、ここで帰ることにする。道後コースは現在37碑中16碑を巡った。西側5箇所残すことになってしまった。どうも効率が悪いが、まあ仕方がない。

秋時雨、落ち葉拾いの非効率さ(かずまる父)なんじゃ!そりゃ!

樋又通りに出るとちょうど東循環バスがやってくる。今日はこれで帰ることにする。

 

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