【01】濁れる水のなかれつゝ澄む(種田山頭火)
2003年11月15日行軍A(俳句の里・道後(24)、旧道後(28)) 句碑は敷地内にある。バス停もできて、人がたくさんやってきて、「これですか?」とよく言われる。まさに、自由詩の大御所。【02】鐵鉢能中へも霰(種田山頭火)
2007年7月29日行軍@A(道後村めぐり(22)、俳句の里・道後(24)、旧道後(28)) 2003年11月15日行軍の坊っちゃん列車は、この後松山市駅へ行ったところで、俳句に関するテレビ撮影があるのだそうだ。そこで坊っちゃん列車のM車 掌も一句読むことになったらしいのだが、彼の句は見事に上司に却下され、目下上司の考えた句を暗記しているところだったらしい。「漂泊の俳人」と評された彼の自由詩は、本当に自由な句が多い。今朝のM車掌に代わってこの句を・・・ 鐡体の外は霰、耐えがたし(かずまる父) 【03】春風能鉢の子一つ(種田山頭火)
2003年11月15日行軍A(俳句の里・道後(24)、旧道後(28)) 【04】明け暮れを一草庵に鉦鳴らし過ぎし歳月かぞへるも夢(横田白扇)
2009年6月7日行軍D 横田白扇は、本名横田英明。昭和35年2月に庵主として一草庵に入庵し、今日まで庵の管理・維 |
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【05】熟田津爾船乘世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜(額田王)
2007年7月29日行軍@A(道後村めぐり(21)、俳句の里・道後(23)、旧道後(27)) その護国神社は「七五三」で境内は騒然としている。みんなスーツ姿で重々しい雰囲気の中、場違いなかずまる特攻隊が行く。出店も出ていて、これ以降かずまるは「メロンパンナ」のお面をかぶって登場。 【06】亀山院御製忘れずよ右のつかさの袖触れし花たちばなや今馨るらむ(亀山院)
2009年6月7日行軍D |
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【07】伊佐爾波の丘めぐる水にこだましてあかつきいで湯の太鼓鳴りいづ(引田義定)
2003年11月15日行軍A(俳句の里・道後(27)、旧道後(31)) 千秋寺は中国の帰化僧によって開かれた寺で、当時は中国風の七堂伽藍をはじめ、20を超える建物を持ち、代々松山藩主の厚い保護下に置かれていたという。そういえば、道後鉄道が道後温泉から城北方面経由で三津口まで運転開始したときも千秋寺前という停車場があったわけだし、そのようなことを考えると、この寺は松山ではかなりの影響力を持っていたのではなかろうか。 【08】金色の仏の世界梅雨の燈も(村上杏史)
2003年11月15日行軍A(俳句の里・道後(26)、旧道後(30)) 千秋寺境内のトイレもよく手入れができている。また、我々のために、と言うわけではないのだろうが、弁当を食べるのに便利な休憩所まで作ってくれている。【09】山本や寺ハ黄檗(おうばく)杉ハ秋画をかきし僧今あらず寺の秋(正岡子規)
2003年11月15日行軍@A(道後村めぐり(21)、俳句の里・道後(25)、旧道後(29)) 句碑は寺内にある。「山本」は御幸寺山の麓のことであって、人の名ではない。 |
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【10】萩静かなるとき夕焼濃かりけり(森薫花壇)
2003年11月15日行軍A(俳句の里・道後(28)、旧道後(32)) 森 薫花壇のな本名は福次郎。明治24年、旧伊予郡余土村西余土に生まれる。句作に親しみはじめたのは、同41年から。当初は、河東碧梧桐門下として、地元の 南山会にも参加している。やがて、縁あって森田雷死久に師事、その直後の指導をうける。 昭和7年、俳誌「糸瓜」を創刊。 |
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【11】功や三百年の水も春(内藤鳴雪) 【12】寳川伊豫川能秋の出水哉(村上霽月)
2003年11月30日行軍A(俳句の里・道後(29)、旧道後(33)) 現在の石手川を造ったとされる足立重信の墓がここにある。内藤鳴雪が読んだのが足立重信没後300年というが、それが今から80年前であり、なおかつ、重信川という名前が残っているというのがというのが時代を感じる。なお、足立重信は現在の岩堰から当時は湿地帯だったといいわれる湯渡方面へ水路をつくり、いわば放水路と防御としての堀の役割を持たせていたらしい。 また、外川(現重信川)の水路も変え、内川と合流させたという。だから氏の名前が川名になったということだ。その元外川とは現在の松前町を流れる国近川だろうか。 一方で、国土交通省松山河川国道工事事務所サイトで、現在の小野川は、石手川を横切ってそのまま松山空港方面へ流れている図がある。 つまり、この工事で小野川の下流部は消失したことになる。その名残となる川筋がが現在松山空港方面へ流れる河川改修かな、と思う。 ただ、河川改修とはいえ、実際には増水時は城下の反対側の堤防が先に決壊するようにつくるのは周知の事実。現在でも頻繁に起こる小野川はその名残であって、それを正岡子規が「荒れにけり・・・」と市坪付近を詠んだりしているのかなと思う。 |
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【13】この墓ニ詣でる度尓思ふかな異国尓眠る友はいかにと (中川啓)
2009年6月7行軍D このロシア人墓地であるが、日露戦争での捕虜が松山へ連れてこられたとき、ハーグ条約により、ちょうど捕虜に関する取り決めがされたところでもあって、ロ シア人は結構自由であったという。それを知って「マツヤマ」と言いながら投降してきたロシア人の話はあまりに有名である。ちなみに、この場所は厳密には来迎寺墓地らしいのだが、あえて別箇所として扱う。 【14】永久眠る孝子ざくらのそのほとり(波多野二美)
2003年11月30日行軍A(俳句の里・道後(30)、旧道後(34)) 波多野二美は本名貞子。耳鼻咽喉科医波多野精美氏の母親である。波多野精美氏は日本耳鼻咽喉科学会地方別全正会員に名を連ねており、「愛媛県南宇和郡におけるレプトスピラ症の疫学的研究」という著書がある。 |
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【15】城北乃景能さきがけ野焼可奈(西岡十四王)
2005年8月21行軍B この句碑はなんと民家の中にある。そこのご主人がせっせと庭の手入れをしていた。西岡十四王は明治19年伊予郡原町村生まれ、本名西岡敏夫。原町だから多分現在の砥部町原町のことなのだろう。早稲田在学中に松根東洋城に教えを受けたという。 |
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