松山句碑めぐり(清水A)

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【08】御幸1丁目 桜台孝子吉平邸跡(清水)

【16】つくしけん人のまことをにほはせてさくかむ月のはつさくらばな(西村清臣)

2003年11月30日行軍A(俳句の里・道後(31)、旧道後(35))

「つ くしけん」とは人の名前かと思わされ、一度聞いたら忘れられない。この句に関しては、「道後村めぐり」では天徳寺前にあるのに対して、「俳句の里巡り」で は御幸1丁目桜台にある。ここの桜は「十六日桜」と呼ばれ、ヤマザクラの早咲きの品種で旧暦の正月16日頃に開花するためこの名前がついている。
この十六日桜は元々近くにある龍隠寺にあったらしく、ここの桜は戦災で焼け、枯れてしまったという。俳句の里巡りを終えた平成17年は2月16日がこの日 にあたるというので、この場所に出かけてみたが、全く咲いていなかった。この桜も一度枯れた後に新たに植えなおしたため、特異性が失われたと書かれてい る。
ところが、先の天徳寺裏には、平成17年2月20日に訪れたときにはほぼ満開の花を咲かせていた。かずまると2人でしばし絶句。なんとも季節外れの桜である。この桜は、小泉八雲の「怪談」により英文で世界に紹介され、孝子桜として名高いという。

【09】御幸1丁目 天徳寺(清水)

【17】西尓来て杖笠遺す此里の初桜見すて加ぬれ波(西行法師)

2009年6月13日行軍D

道後村めぐり(27)のスタンプが正面にある。が、横の句碑は「西尓来て杖笠遺す此里の初桜見すて加ぬれ波」である。では、スタンプの句碑は?というと、上にある「8-16・つくしけん・・・」である。


【10】御幸1丁目 千秋寺清水

【18】二度とない人生だから二度とない人生だから一輪の花にも 無限の愛をそそいでゆこう一羽の鳥の声にも 無心の耳をかたむけてゆこう二度とない人生だからつゆくさのつゆにもめぐりあいの不思議を思い足をとどめてみつめてゆこう(坂村真民)

2005年8月21日行軍D

個人的には「念ずれば花ひらく」よりは「二度とない人生だから・・・」の方が好きである。長すぎて枠に入らんのだろうが。
ちなみに、これは「あっとえひめ」にはあったものの、同一箇所に道後村めぐり句碑があったため、多分当初はカットしたのだろうと思う。というわけで、一応これは追加句碑。


【19】念ずれば花ひらく(坂村真民)

2007年7月29日行軍@(道後村めぐり(26))

道 後村めぐり新句碑のうちのひとつ。だが、この句碑は「高木町高音寺」「南高井町ていれぎ名水の里取水場」「権現町県立盲老人ホーム権現荘」、さらには「今 治市国分寺」にある。また、他にもわんさか出てくる。わざわざ、弘願寺がこの句碑を並べる必要は?おまけに、門前にはアンパンマンの石碑もあるし。

【11】御幸1丁目 長建寺清水

【20】母と行くこの細径のたんぽゝの花(高橋一洵)

2009年6月13日行軍D

とにかく猫が多い。長建寺は天正11(1583)年、開山真名誉了吟が松前(現在の松山市松前町)に開創し、加藤嘉明が現在の場所に移した。
種田山頭火の自由律俳は有名のところだが、高橋一洵もまた、種田山頭火と親交が深かったという。高橋一洵は明治三二年松山に生まれる。早稲田大学法学部卒業後、松山高商、松山商大でフランス語、政治学を教えた。一草庵を建てたのも彼だという。


【21】もりもりもりあかる雲へあゆむ(種田山頭火)

2003年11月15日行軍@A(道後村めぐり(25)、俳句の里・道後(23)、旧道後(36))

以前の道後村めぐりの句碑は「よくみれば薺花(なずな)花咲くかきねかな」であった。今回、かずまるに「なんで五七五じゃないの?」と言われてしまった。自由詩と言ったって、かずまるには判るまい。いや、私も判らない。


【22】筆に声あり霰の竹を打つごとし(正岡子規)

2009年6月13日行軍D

子規は従軍記者として日清戦争にも従軍しているが、自分が書く文章(記事)の反響を「筆の声」と譬えた。そしてその声は竹を打つ霰の音のように鋭く清新に響くという意味。


【23】みんな雑草みんな花みんな雲(高橋丈雄)

2009年6月13日行軍D

NPOまつやま山頭火倶楽部サイトでは、「太宰治にも絶賛され、林芙美子とも交流のあった小説家・尾崎翠の恋人だった劇作家・高橋丈雄のお墓がある。昭和4年に「改造」で入選した戯曲「死なす」で文壇にデビュー。」と書かれている。


【24】与久ミ禮者薺花さく可幾根か南(松尾芭蕉)

2009年6月13日行軍D

松尾芭蕉の影響力というところか。


【25】門前に野菊咲きけり長建寺(大島梅屋)

2003年11月15日行軍A(俳句の里・道後(32)、旧道後(37))

大島梅屋は正岡子規の門下生。この句に対して、正岡子規が会稿の右肩に「圧巻」と記したという。今で言う「大変よくできました」ということになる。大島梅屋の有頂天になった表情が浮かぶようだ。

【12】文京町 松山赤十字病院清水

【26】春風や博愛乃道一筋仁(酒井黙禅)

2005年7月31日行軍B

酒 井黙禅は、福岡県出身で東大医学部を卒業している。その際に東大俳句会に入会している。大正九年、三八歳で松山赤十字病院長として松山に赴任して、二九年 間病院長を務め、この碑の説明には「名誉院長」の称号とともに、昭和二八年の松山赤十字高等看護学院卒業式に祝辞の中で詠まれたものだと書かれている。
俳句会の中で高浜虚子に出会い、「ホトトギス」に入会した後に松山へ赴任してきた酒井黙禅には、松山の街はどのように映ったのだろうか。夏目漱石のことがあるから、気になるところである。

さて、ここで気になるのが、上記「文京町 松山赤十字病院(清水)」である。このかっこ内は、「あっとえひめ」に記載されていた地区名で、おそらく小学校区だと思う。
この日赤の北側に東雲小学校があるということは、ここは本当に「清水か?」という疑問はある。なにしろ、日赤の建替えでは隣接する東雲小学校の一部を購入 するとなっているくらいである。しかも、この後「東雲地区」が出てくるが、それらはほとんどが日赤をはさんで南側となる。
先に「山田町 妙清寺」を校区は湯築かもしらないが、場所的なものを考慮し、あえて伊台としたことと矛盾するが、ここはあえて変更しない。

【13平和通2丁目6清水

【27】草の花練兵場ハ荒れ尓介り(正岡子規)

2005年7月31日行軍B

平和通1丁目から2丁目にかけて、道の両側にずらりと並んでいます。多分道路改修工事と同時に建てたのでしょう。しかも、ほとんど正岡子規のオンパレード・・・

【14】平和通2丁目1清水

【28】餅を搗く音や於城の山かつら(正岡子規)

2005年7月31日行軍B


【15】御幸1丁目 不退寺清水

【29】分け往けば道はありけ里すゝき原(柳原極堂)

2005年8月21行軍B

菩提山記事録に「当寺は往昔松前城下に在りしを慶長八年(一六〇三)藩主加藤嘉明公松山移城するに伴い現在の土地を給い移転したるものなり」とあるらし い。が、我々には寺内の猫の多さにびっくりする。句碑も見当たらない。探している間、かずまるは猫にちょっかいをかけている。いいかげん諦めようかと思っ たときに、なんと寺の一番奥のでかい石碑がそれだということに気づく。

【16】御幸1丁目清水

【30】咲いて一りんほんに一りん(種田山頭火)
【31】 静かなる山下影に庵つくり雪粧わせて見る桜かな(西行法師)
【32】嘘のよな十六日桜咲きにけり(正岡子規)
【33】西に行き法師もいかに初桜しばしとてこそ杖とまりけり(一遍上人)
【34】一枝に一輪十六日桜かな(河東碧梧桐)
【35】花に来て寺の田楽よばれけり(柳原極堂)
【36】人の気を花に乗せゆく桜かな(松尾芭蕉)
【37】又たくひ世は梅さかり此の桜(小林一茶)

2006年5月30行軍B

ここには十六日桜を詠んだ著名な句がずらりと並んでいる。ただ、この句碑はかなり新しい。多分住職さんが十六日桜を惜しんで、桜に関する句碑を集めてきた のだろう。もっとも、本当に十六日桜か?と思われる句碑もないではないが・・・それはともかくとて、十六日桜を見ての感想が一様に読み取れ、作者の心まで が読み取れるような気がして面白い。特に種田山頭火の句など「なんじゃ、こりゃ?」と思わないでもない。それだけ松山の話題になっている十六日桜だが、昨 年は2月20日に見事に咲かせていたのに、今年は咲いていなかった。時期が悪かったのかもしれないが、他の桜の特異性が失われつつある中、何時までも残っ てほしいものである。

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