【01】東雲のほがらほがらと初桜七十九(内藤鳴雪)
2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(16)) 東 雲神社は松山藩十一代藩主松平隠岐守定通が建立したもので、天保11(1840)年12代藩主隠岐守勝善公長者ヶ平に社殿をおいたという。戦争で消失した が、昭和46年西堀端にあった松山大神宮を奉遷し、昭和48年焼失していた社殿を再建したという。先に、このあたりは城の鬼門とあったが、この東雲神社は やはりそれらを考慮して造られたものだと思っていたが、なんだか元々は南西の方向に縁のある神社のようだ。いよいよこの時のクライマックス、東雲神社に登 ることになる。石段を踏みしめて、ようやく碑までたどり着く。【02】遠山に日の当りたる枯野哉(高浜虚子)
2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(15)) |
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【03】夕桜城の石崖裾濃なる(中村草田男)松山市東雲町(東雲公園)
2003年10月19日行軍A(俳句の里・城下(17)) 明治34年7月24日、当時の中国福建省アモイの日本領事館で生まれ、本名清一郎、四歳のときに母親と郷里松山へ帰ったという。彼には、もうひとつ旧中島町の松山北高校中島分校の校門に碑があるらしい。 |
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【04】松山や秋より高き天主閣(正岡子規)
2005年10月19日行軍B 松山市内にはロープウェイが二ヶ所ある。松山城と奥道後である(奥道後は廃止)。そのうち、松山城にはリフトも併設されているが、こちらは小学生未満は利用できない。かずまるを連れてリフトに乗るのはこれが最初である。かずまるはこのリフトがたいそう気に入ったらしい。問題の句碑はリフトを降りてすぐのところにあったのだが、ちょうどスズメバチの巣が近くにあるとかで、付近は立入禁止になっていた。 この松山城は高さ132メートルの勝山に建てられているが、城の分類上、この高さでは山城ではなく、いわゆる姫路城、和歌山城と並んで、三大平山城とさ れている。が、「秋より高き天主閣」、確かに山城ではないと言いながら、城へお勤めに行く人々は結構運動になったろうな、と思う。 ただ、たまに「三大平山城の中では最も有名・・・」という記事を見ることがあるが、多分姫路市は相手にしないと思う。 |
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【05】牛行くや毘沙門阪の秋の暮(正岡子規)
2003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(14)) 西 に松山城へ上るロープウェイ入口がある。このあたりは城の鬼門であり、昔、毘沙門天が祀ってあったという。「風水都市松山」という著書もあるくらいだか ら、そのあたりは考えられて街づくりをしたのであろう。ちなみに、城の北東部に谷があるが、あのあたりが首切り場だったという説がある。 |
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【06】風ひそひそ柿の葉落としゆく月夜(野村朱燐洞)
22003年10月25日行軍A(俳句の里・城下(13)) 三 宝寺がなかなか見当たらない。秋山兄弟の生家に出てしまった。人に聞いても要領を得ない。ロープウェイ街と八坂通りを行ったり来たりするのは、距離にすれ ばたいしたことはないのだが、それまで結構街中をのらりくらりと歩いてきたものとしては、ロープウェイ街の坂が意外とつらい。思ったより奥まった場所に やってきて、ようやく見つける。この後に、東雲神社の階段がある。野村朱燐洞は明治26年に松山市小坂町に生まれ、自由律俳句で活躍したが、26歳で急死する。後に種田山頭火がが松山へ立ち寄ったのも、彼の墓参りとされているが、最後の1年足らずを松山で過ごすきっかけを作ったようだ。 |
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【07】秋の山御幸寺と申し天狗住む(正岡子規)
2005年7月31日行軍B 現在は、古町駅付近までずらりと句碑が並んでいる。実際に全句碑を撮影して入るのだが、かずまるの画像も出てこないし、現在のところはあえて追加をしていない。 |
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【08】杉谷や有明映る梅の花(正岡子規)
2005年7月31日行軍B この付近と東雲小学校の間に松山赤十字病院がある。その松山赤十字病院が「あっとえひめ」で「清水」となっているのがよく判らない。今は既に可能性が低くなったが、万一、病院が移転し、その跡地にマンションでもできようものならば、校区はどうなったのだろう。 |
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