松山句碑めぐり(東雲A)

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【08】平和通1丁目2東雲

【09】杉谷や山三方にほとゝぎ須(正岡子規)

2005年8月21日行軍D

その時代の風景が見えてくるような句碑のオンパレードなのだが、ひとつだけ首をひねる句がある。それが「杉谷や山三方にほとゝぎ須」である。確かこれは義安寺をさすものではなかったか。まあ、ここにあるということは、何らかの必要性があったのだろう。

【09】平和通1丁目3東雲

【10】天狗泣き天狗笑ふや秋の風(正岡子規)

2005年7月31日行軍B

み ごとなまでに正岡子規のオンパレードである。松山赤十字病院と愛媛大学の間にある道から北には、護国神社とその上に御幸寺山が望まれる。この御幸寺山は天 狗が住む山と言い伝えられてきた。また、愛媛大学、松山大学、松山北高校のあたりは、夏目漱石「小説坊っちゃん」にもでてくるが、かつては練兵場があっ た。

【10】平和通1丁目5東雲

【11】蜻蛉の御幸寺見おろす日和哉(正岡子規)

2005年7月31日行軍B

この付近と東雲小学校の間に松山赤十字病院がある。その松山赤十字病院が「あっとえひめ」で「清水」となっているのがよく判らない。今は既に可能性が低くなったが、万一、病院が移転し、その跡地にマンションでもできようものならば、校区はどうなるのだろう。


【11平和通1丁目6東雲

【12】見上ぐれば城屹として秋の空(夏目漱石)

2005年7月31日行軍B

当時の平和通の8句碑のうち、この碑だけが夏目漱石になっている。

【12】勝山町2丁目 常楽寺東雲

【13】年越経て花に遊へ流君可名ハ奈越い川万出も世耳香をらまし(池の坊専正)

2005年8月12日行軍B

常楽寺というよりも狸伝説六角堂と言ったほうが判りやすいかもしれない。が、実際には六角堂常楽寺というらしい。かつて「俳句の里巡 り・城下編」で、六角堂にやってきて、「おおっと、よっぽどやる気がないのか」と述べたが、このお寺にも句碑があった。かつての松山電気鉄道時代には「六 角堂」という電停があったわけだから、地域の中心的なところだったのだろう。
 ここには二碑あったはずだが、もう1碑が見当たらない。ちょうどお寺の方が掃除をしていたのでたずねたところ、「そんな句碑ありましたかなあ」という返 事。がくっ。ちょうど六角堂の前を坊っちゃん列車が通り過ぎていく。運転助士がなにをやっとるんだ。という表情をしていた。


【13】勝山町1丁目東雲

【14】砂土手や西日をうけて蕎麦の花(正岡子規)

2005年8月12日行軍B

いよいよ、先週巡って大失敗した場所へやってきました。ただの石ころだと思っていたのが句碑だったとは・・・

【14】一番町1丁目(東雲)

【15】高浜虚子住居跡

2003年10月19日行軍A(俳句の里・城下(18))

ここは、前回帰りのバスを待ったところのすぐ裏手である。注意をしていれば、すぐに見つかったのだろうが、まあ、それもご愛嬌なのだろう。
松山市教育委員会の「俳句の里巡り」によると、ここは高浜虚子の生家ではなく、何度か引越しをして、子規がたずねてきた場所だと言う。が、同サイトによる と、虚子の生家は「子規生い立ちの家(湊町四丁目一番地)の北隣りにあったが・・・」とあるのに、ここへ転居してから、河東碧悟桐に紹介をしてもらってい る。結局子規の南隣に生まれても、それだけでは子規とはつながらなかったらしい。
ただ、私が漠然と思うのは、河東碧悟桐と高浜虚子とはこういうつながりがあったにもかかわらず、後には保守的イメージの高浜虚子と改革派的イメージの河東碧悟桐が対立していくというのが記憶に残る。

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