【07】正風の三尊みたり梅の宿(小林一茶)
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(19)) そ うか、小林一茶は松山へ来ていたのか。と、急に小林一茶に対して親近感を覚える。何しろ、最後に来て、松尾芭蕉、小林一茶といえば、全国区である。なん で、松尾芭蕉?と思ったところに小林一茶が実は松山へやってきていたということは、ただそれが判っただけで、なんとなく、今日ここへやって来てよかったな あ、と思うのであった。が、「魚文宅の前には碑を立てる余裕がないので、道路事情のため、この地へ建てたものである。(松山市教育委員会サイトから抜粋)」どういう道路事情だ!なんで、国道11号の中央分離帯なの?この碑へ行こうとすると、命がけになるの? |
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【08】新立や橋の下より今日の月(正岡子規)
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(20)) 石手川を上っていくと、旧国道11号の橋のところに金刀比羅神社がある。それにしても、松山市内を歩き回っていると、金刀比羅神社と三島神社の多いこと。 |
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【09】馬をさへなかむるゆきのあしたかな(松尾芭蕉)
2003年10月13日行軍A(俳句の里・なし、旧城下(21)) 新立はこのあたりの地名であるが、この橋が新立橋だったのか?よく使った割には知らなかったものである。この橋は寛政1年
(1789)、宮内与八が石手川最初の橋として建設したという。が、元々、石手川は足立重信が作った人工の水路である。最初の橋というのがイマイチ理解で
きないが、そのくらい歴史があるというのであろう。 |
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【10】薫風や大文字を吹く神の杜(正岡子規)
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(23)) 現 在の場所に引っ越す前に職場から帰るルートとしてよく通った井手神社であるが、そういえば、7月下旬に天神祭りが開かれていた。実際には、7月24、25 日で天神さんにあやかろうと、人々は競ってお祭り当日に大きな墨書を奉納し、これを「大文字」といったのだという。そうか、そんなにありがたい神社だった のか。 |
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【11】囀や天地金泥に塗りつぶし(野村喜舟)
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(21)、旧城下(22)) 昼 食後の一番疲れを感じるときにふと湧き上がる疑問・・・「野村喜舟は明治19年金沢市に生れ、上京して松根東洋城に師事し、昭和27年、東洋城の跡をつい で、昭和51年12月までの25年間、俳誌「澁柿」巻頭句の選に当り、同誌を主宰した。(松山市教育委員会サイトから引用)」なんで、そんな人の碑がここ にあるの?と思ったら、松根東洋城が松山中学出身で、野村喜舟が昭和58年没だから、松山の地に碑を残すことになったのだろう。 |
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