【01】正岡氏累代之墓
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(32)) 正岡子規の両親も眠る正岡氏累代の墓である。子規居士髪塔の裏面には「明治37年9月19日樹」と書いてある。つまり、子規没後3周忌に建てられたということになる。 【02】正岡子規埋髪塔 【03】内藤鳴雪埋髯塔
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(33)) 鳴雪先生とは、多分内藤鳴雪のことだと思うが、この人もまた私のよくわからない人である。仕方がないから虎の巻に出ていただく。江戸の松山藩邸で生まれ、本名素行(なりゆき)という。子規との交流の中で45歳から俳諧への道を歩む。45歳かあ。鳴雪先生髯塔の裏面には「髯塔 昭和3年5月建」とある。鳴雪は大正15年2月20日没だから、はて?3周忌ということにはならないが、まあ、その頃に建てられたことになるのだろう。 【04】子規居士と鳴雪翁の居たまへる伊予の御寺の秋の夕暮(与謝野晶子)
2009年5月16日行軍D 与謝野晶子は、松山市史によると、昭和6年11月に松山市へやってきている。 【05】笹啼が初音になりし頃のこと(高浜虚子)
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(34)) いよいよ高浜虚子が登場し、松山の俳諧の御大方が揃った。笹啼とは「ささなき」と読み、鶯が、まだ春のようにはうまく鳴けない様子を言うらしい。まだホト トギスが「ホー、ホケキョ」と鳴けない様子が浮かぶ。「ホトトギス」発足の頃を、鶯の「笹啼き」にたとえたとあるが、俳句の道とは、高尚なシャレを芸術に している、と言ったら失礼に当たるだろうか。しかも、17文字で季語があって、シャレがあるということは、とてつもないエネルギーの塊のように思えてなら ない。【06】打ちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きがてにする(正岡子規) 【07】今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸の打ち騒ぐかな(正岡子規)
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(35)) ここにある客車が先に述べた「かつての坊っちゃん列車の客車」、伊予鉄道から寄贈された「ハ1型」客車である。その前に置かれた「小説坊っちゃんを書いた人」とある夏目漱石の顔があるが、なんとも生首のような気がしないでもない。実際我々かずくん倶楽部は、かつてはここへよくきた。坊っちゃん列車がまだ一乗車1000円だった頃、坊っちゃん列車を見ては、ここで昼食をとったもので ある。今は坊っちゃん列車も1000円から300円に値下げされ、坊っちゃん列車に毎週乗るようになって、ここへ来る回数が減った。坊っちゃん列車が 1000円から値下げされたと同時に、夏目漱石も千円札から下ろされたというのがなんとも残念である。 【08】朝寒やたのもとひゞく内玄関(正岡子規)
2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(36)) 正岡子規は明治28年9月から10月にかけて、松山市内を四回散策している。その内容は、この後結構出てくるのであるが、この句は、その4回目に今出の村上霽月を訪ねていくときに立ち寄ったものである。ここで、住職で俳人の一宿和尚を誘ったが、所用のため断られている。【09】子規堂の小窓開けあり葉鶏頭(堀内雄三)
2009年5月16日行軍D 【10】停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱の様な汽車だ。ごろごろと三分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。「坊ちゃん」より(夏目漱石) 【11】子規が乗り漱石が乗り三津に行き道後に行きし汽車がこの汽車(越智水草)
2009年5月16日行軍D 前者については、言うまでもなかろう。あまりにも有名な文章だ。今でも坊っちゃん列車に乗車すれば、車掌から同様の案内を受けることができる。越智水草(1891年‐1991年)は本名越智二良(おち じろう)、俳号が水草。愛媛県立松山商業学校(現・愛媛県立松山商業高等学校)を卒業後、 海南新聞社(現在の愛媛新聞社)を経て、朝日新聞社に入社したという。 |
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