松山句碑めぐり(雄郡A)

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【02】泉町 薬師寺(雄郡)

【12】寺清水西瓜も見えす秋老いぬ(正岡子規)

【13】我見しより久しきひょんの茂(正岡子規)

2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(29))

国「ひよん」とは、別名「イスノキ」といい、「マンサク科」、子規は「ひょんの茂哉」として夏の句としたのだそうだ。が、俗物な私は「いぬ」「ひょん」と あるのを見て、「八丈島のきょん」を想像した。それでは「ガ○デカ」である。俳句の重厚な世界に入っていると、突如として爆発してしまった。私に俳句の才 能はないらしい。

【03】末広町 興聖寺雄郡

【14】梅てのむ茶屋も有へし死出の山(大高子葉)

2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(31))

興聖寺は聖徳太子が道後温泉を訪れた際に建立されたとされており、松山城の2代目藩主であった蒲生忠知の菩提寺である。
忠臣蔵の事件の際、吉良邸を襲撃して、亡き君主の仇討を果たした赤穂義士47人のうち、大石主税以下10名は江戸の松山藩邸に預けられ、そこで切腹を命ぜ られという。大高源五は赤穂義士として32歳でなくなったんですねぇ。今の世の中でよかったなあ、と思ったりもする。が、大高源五は俳諧に長け「子葉」と 号したことから、大高子葉という。仕組まれた時代の流れの中に突っ走っていった、主人の敵討ちとは別の世界で、俳句を読むという世界も考えてみると、不思 議ではある。案外余裕のあった時代だったのかもしれない。



【15】極堂の句碑ここりあ里興聖寺(塩崎潤)

2009年5月16日行軍D


【16】こゝろざし富貴にあらず老の春(柳原極堂)

2003年10月13日行軍A(俳句の里・城下(30))

柳原極堂は本名柳原正之で、子規と同年生まれ。「極堂」とは明治29年に子規から賜ったもので、彼は90歳まで生き、自分の余生を子規顕彰にささげたという。というと、昭和32年没。私が生まれたのが、その5年後だから、子規も含めて、結構現代の話なのだと思う。


【04】小栗3丁目 雄郡神社雄 郡

【17】御所柿に小栗祭の用意かな(正岡子規)

2005年5月29日行軍A(俳句の里・城西(1))

雄 郡神社は元々はここの地名でもある「小栗神社」又は「小栗正八幡宮」ともいい、松山八社八幡のひとつでもある。我々が行ったときには、ちょうど祭りの準備 (?)をしていた。ちなみに、ここは伊予鉄道(坊っちゃん列車)の祈祷本家である。正岡子規もこの神社が氏神だったというが、なにか関係でもあったのだろ うか。


【18】うぶすなに幟(のぼり)立てたり稲の花(正岡子規)

2005年5月29日行軍A(俳句の里・城西(1))

そういえば、正岡子規が明治28年に松山の街を五回巡ったときの5回目、すなわち10月7日の時には、人力車で正宗寺経由雄郡神社へやってきて、そのまま 保免の宮から竹の宮三島神社を巡り、西垣生の三島神社前にある村上霽月宅へ行っている。今日は途中で一旦出合大橋方面へと回るが、最終的には村上霽月宅跡 へ行く予定であるから、このときの正岡子規の軌跡を追うことができる。


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