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4日目(7月23日・月) 注意: 【行程】網走830==北浜駅==原生花園駅==浜小清水駅==リリーパーク==以久科原生花園==オシンコシンの滝==1500ウトロ(岩尾別コース・観光船)==1815ウトロ(泊) ようやく晴れた!が、全国ニュースで北見地方は午後から雷雨になるという予報が出ている。よっぽど雨に縁のある旅行である。しかし、それは夜の話だし、ウトロまで行けば距離はある。 北浜駅【回想】★★★☆☆ この北浜駅は、オホーツク海に最も近い駅ということになっている。予讃線下灘駅が海側に道路を埋め立てた関係で、日本で最も海に近い駅の座から転落し、「海」という概念だけなら鶴見線海芝浦駅なのだが、実際は運河で、海には見えない。「日本海に最も近い駅」信越本線青海川駅か、この駅かというところか? ちなみに、この駅にはこの駅へやって来た人々の名刺や切符が貼られていることで有名である。私も昭和63年2月に貼ったのだが、さすがに見当たらなかった。また、国鉄時代の冬場は待合室には暖房が効いていたのが、末期の63年には釧網本線のこのあたりの駅は暖房が切られ、代わりに隣に喫茶店ができるというパターンが確立していた。だから、携帯用魔法瓶にスティック式のインスタント珈琲を持ち歩いたものであった。 なお、19年前はこの駅へ来るために、「オホーツクに消ゆ」のCDをわざわざ買ったものだが、今回は携帯電話のMPに録音して来た。 原生花園(道の駅・JR原生花園駅)【回想】★★★☆☆ が、かずまる妻子と付き合うと、本論へ行くのに時間がかかる。はっきり言って、先に現物を見てから、展示物を見ればいいのに・・・まあ、先に知識を得ると言うのも判らないでもないが、展示物を見て、買い物をして、食事してから、現物を見たのでは、時間がいくらあってもたまらん。この性格が開陽台で痛い目にあうことになる。 ようやく、原生花園に・・・ちなみに、鳴り浜では音は聞こえず。 原生花園駅。なんだがカメラマンのような女性とその師匠のようなおじさん、そして、いかにもテツという男性が女性カメラマンの邪魔をしながら撮影しています。 原生花園で、衝撃の事実を!!DMVが試験運行していると言う。JR北海道のホームページは見るには見ていたが、もっと見ておくべきだった。昨日、網走駅隣のコンビニに入ったとき、せめて網走駅に行っていれば、気づいたかもしれない。 ちなみに、試運転は企画旅行になるので、あらかじめ予約が必要。1日3便、浜小清水駅から藻琴駅まで鉄路を走って、トウフツ湖の南側道路を走って戻るのだそうだ。ううっ!!仕方がないので、撮影だけでも・・・ これが、DMVの時刻表。ただ、よっぽどのことがない限り、北海道の場合は、鉄路に戻るよりも、道路を走ったほうが早いような気がする。JR北海道の場合は、一応除雪されていない道路対策用らしいのだが、このあたり、本州以南の考え方とは違うようだ。 リリーパーク(浜小清水町)【回想】★★★☆☆ ちなみに、原生花園で、最近増えすぎたエゾシカを保護した「シカ公園」が国道沿いにあったらしいが、リリーパークに寄ったため、1本南の道路を一路知床方面へ走ったこともあり、結局場所は判らず。 なお、本当は、斜里では越川の旧根北線鉄橋跡を見てみたかったのだが、自己満足はいかんと思ったし、案外かずまるは鉄道跡に興味がないため、これは諦めた。 以久科原生花園(斜里町)【回想】★★★☆☆ が、結果は、妻の一言が全てを物語ることとなった。「人の手が入っていないというのも良し悪しや!」この言葉は、多分学生時代の私だったら、猛反発することだろう。だが、今の私には、この言葉は、ズキッと脳裏に響いた。 学生時代は、人の手の入ってないところを探して出かけていくことにある意味全てを掛けていたような気がする。そして、そんな場所があることに満足していたのだ。意味もなく猿払原野を歩いた、混戦原野も歩いた、そして、私が最も心惹かれた根室半島もあちこちを歩いたことが蘇る。あるいは、テツの趣味もそのような排他的な感情があるのかもしれない。そういえば、大学時代に議論した「鉄道研究会」と「旅行研究会」では、今思えば根本が違っているような気がする。 昭和62年冬の社会人2年目、すでに限られた時間内での行程に失敗し、翌63年冬、道東に絞って、自分なりに満足した旅を経て、19年の沈黙に入った。そして、今再びこの場所に帰ってきた感想は、妻の一言で目覚めたような気がする。私はそこに住んでいるわけではない。社会人として、そこに理想を求めるのは、あくまで自分の精神的支えとなるのならばそれでよい。だが、それを公言してはならない、と思っていた。 だが、現実はいずれは目覚める。たかが4泊5日の理想郷で、そんな高尚な夢を見ることはできない。それならば、プライドを捨てて、観光資源に没頭すべきではないか。19年の沈黙に対して「帰ってきたよ!」とつぶやく。それでいいのではないか。そう思ったとき、私は気が楽になったような気がする。 かつて、北海道病にかかり、北海道を彷徨った。昭和59年3月、大学4年進級が危ういまま北海道に来て、そこで1年過ごしながら、大学の単位をとる必要があるときに大学へ戻ることを考えた。そして、根室標津の民宿のオーナーに「働いてみないか?!」と言われた。だが、その2日前に大学の友人に電話をして、進級が決まった連絡を受けていた。元々そのつもりで北海道へ来たのだが、2日遅かった。それでも心が動いた。「きりたっぷ里」のオーナー武士さんにような生活が待っていた。だが、私はそれを振り払った。そんな私は、もはや現実社会に生きなければならなかったのだ。あるいは、すでに先のほうが短くなった定年後ということもあるが、それはまだ先のこと。今を生きるための息抜きとしてここへ戻ってきた以上、やはり観光地に対して素直に感動しなければならない。それをはっきりと感じさせた、妻の一言であったような気がする。 オシンコシンの滝(斜里町)【回想】★★☆☆☆ 知床観光船(斜里町)【回想】★★★★☆ ホテル知床(斜里町)【回想】★★★★★ |