> 愛媛の散策へ > 松山の俳句・歴史・風土へ > 俳句の世界へ |
第2部 道後編(3) 第5章 平成15年11月30日(日) 「俳句の里巡り」道後コースもいよいよ佳境に迫った。幸い天気も良い。道後コースは東端と西端を残しているのだが、上手くいけば、その両方を制覇してみようと思う。 12時45分のバスで中央通二丁目バス停を出発し、先日途中で雨が降り始めて中止した場所まで行く。木屋町で下車。だが、ここからめざす長建寺は結構遠い。とろとろと歩いていく。それから1年後にはこのあたりにボンネットバスが走り始め、大変便利になった。が、この時はまだまだこのあたりは、ただ歩くしか方法がなかった。 37番:もりもりもりあかる雲へあゆむ(種田山頭火) とにかく猫が多い。長建寺は天正11(1583)年、開山真名誉了吟が松前(現在の松山市松前町)に開創し、加藤嘉明が現在の場所に移した。 種田山頭火の自由律俳は有名のところだが、高橋一洵もまた、種田山頭火と親交が深かったという。高橋一洵は明治32年松山に生まれる。早稲田大学法学部卒業後、松山高商、松山商大でフランス語、政治学を教えた。一草庵を建てたのも彼だという。 36番:門前に野菊咲きけり長建寺(大島梅屋)松山市御幸1丁目(長建寺門前) 大島梅屋は正岡子規の門下生。この句に対して、正岡子規が会稿の右肩に「圧巻」と記したという。今で言う「大変よくできました」ということになる。 35番:つくしけん人のまことをにほはせてさくかむ月のはつさくらばな(西村清臣)松山市御幸1丁目(桜台孝子吉平邸跡) 「つくしけん」とは人の名前かと思わされ、一度聞いたら忘れられない。この句に関しては、「道後村めぐり」では天徳寺前にあるのに対して、「俳句の里巡り」では御幸1丁目桜台にある。ここの桜は「十六日桜」と呼ばれ、ヤマザクラの早咲きの品種で旧暦の正月十六日頃に開花するためこの名前がついている。 この十六日桜は元々近くにある龍隠寺にあったといい、ここの桜は戦災で焼け、枯れてしまったという。平成17年は2月16日がこの日にあたるというので、この場所に出かけてみたが、全く咲いていなかった。この桜も一度枯れた後に新たに植えなおしたため、特異性が失われたと書かれている。 が、先の天徳寺裏には、2月20日頃にはほぼ満開の花を咲かせる。この桜は、小泉八雲の「怪談」により英文で世界に紹介され、孝子桜として名高いという。 34番:永久眠る孝子ざくらのそのほとり(波多野二美)松山市御幸1丁目(ロシア人墓地) 波多野二美は本名貞子。耳鼻咽喉科医波多野精美氏の母親である。波多野精美氏は日本耳鼻咽喉科学会地方別全正会員に名を連ねており、「愛媛県南宇和郡におけるレプトスピラ症の疫学的研究」という著書がある。 さて、このロシア人墓地であるが、日露戦争での捕虜が松山へ連れてこられたとき、ハーグ条約により、ちょうど捕虜に関する取り決めがされたところでもあって、ロシア人は結構自由であったという。それを知って「マツヤマ」と言いながら投降してきたロシア人の話はあまりに有名である。 なお、日露戦争といえば、どうしても秋山真之が出てくるが、梅津寺海岸にある同氏の銅像から山頂へ登ったところに日露戦争に関する写真が展示されている。保存状態があまりよくないので、早めに行っておく必要があると思う。 33番:功(いさおし)や三百年の水も春(内藤鳴雪) 西方向最後の碑。先のロシア人墓地はこの来迎寺の墓地らしい。現在の石手川を造ったとされる足立重信の墓がここにある。内藤鳴雪が読んだのが足立重信没後300年というが、今から80年前というのが時代を感じる。 我々はここから再び道後樋又通りへと出る。バスを降りてからちょうど1時間。ちょうど先ほどの循環バスが1周してやってくる。ここから湯渡橋までバスに乗って、東野お茶屋跡経由で最終目的地石手寺へと向かう。 が、湯渡橋から東野お茶屋跡までは結構遠い。途中コンビニでおにぎりを買って、お堂で食べたりしていると、東野お茶屋跡到着は1時間半後の3時30分頃になった。晩秋の日暮れは早い。はたしてどうなることか。 18番:ふるさとのこの松伐るな竹切るな(高浜虚子)松山市東野4丁目(東野お茶屋跡) 現在愛媛県研修所と農協学園のある場所は大規模な庭園だったという。その詳細地図は研修所西側公園の前に看板がある。その図を頭に入れて淡路ケ峠付近から眺めると、実は更に南側へ広がる愛媛大学の農園付近も全て庭園だったことがわかる。愛媛県研修所東側には、かつての城主久松松平家の家があるが、庭園については、かつての面影はない。 19番:閑古鳥(かんこどり)竹のお茶屋に人もなし(正岡子規)松山市東野4丁目(東野お茶屋跡) 東野お茶屋については、正岡子規も高浜虚子も破壊に関しての句を述べている。久松定武氏が愛媛県知事を努めたのは戦後であるし、さらにこの地に愛媛県研修所が建てられたのは、白石春樹氏時代だから自ら破壊というわけではないのだろうが、そばで見ていて、どのように思ったのだろうか。 13番:鎌倉のむかしを今に寺の鐘(前田伍健)松山市石手2丁目(石手寺参道右) 東野お茶屋跡から、今回の最終目的地石手寺までの道は、まともに行けば大変な迂回をすることになる。以前「道後村めぐり」の際には、路地を、農道を、河川管理道を突っ切って、岩堰に出た。今回も同様にショートカットをした。すでに時刻は4時を過ぎて、日没が近づいている。石手寺ではそろそろ店が閉まろうとしている。 前田伍健といえば、高松市生まれだが、伊予鉄道に勤め、野球部として高松市のチームと戦って負け、その晩の懇親会で敵を討つべく、即興で踊ったのが松山野球拳の始まり、とされている。 14番:南無大師石手の寺よ稲の花(正岡子規)松山市石手2丁目(石手寺参道右) この碑の番号がなく、夕闇迫る中探すのに苦労する。いよいよ闇が迫ってきた。 17番:葉桜の中の無数の空さわぐ(篠原梵)松山市石手2丁目(石手寺境内左) 篠原梵は明治43年、現在の伊予市に生まれる。松山中、松山高校を経て東京帝国大学国文科卒業後、中央公論社に入社し、「中央公論」の編集長、「中央公論事業出版」の社長を歴任したが、昭和50年松山に帰省中肝硬変で急逝した。 15番:身の上や御鬮を引けば秋の風(正岡子規)松山市石手2丁目(石手寺境内右) 16番:祭芭蕉翁冢(表)宇知与利て波奈以礼佐久戻牟女津波几(裏)松山市石手2丁目(石手寺三重塔北) 最後は日没後になってしまった。城下編と同様今回も夜に突入した。が、これでなんとか道後編を終了した。親子3人で道後温泉駅まで歩いていくと、その前に今日の運用を終了した坊っちゃん列車がたたずんでいた。 短日に、坊っちゃん列車も短運用(かずまる父)マニアック? |
第2部 道後編(3) 第6章 平成15年12月6日(土) 道後編を終了した、などと言って、よく考えてみると、大御所26番俳句の道を忘れてしまっていた。まさに、最終回後編などという、どこかの放送局のドラマ状態になってしまった。 26番:俳句の道(松山市道後町2丁目) 道後温泉から西循環バスに乗って道後緑台で下車する。が、道沿いには期待に反して、番号札はない。もっと句碑がどどっとあるのかと思っていたが、そうでもないようだ。実際には10碑あるようだが、結局、番号札がないこともあって、そのまま通り過ぎてしまった。 短日に、かずまる父も短期かな(かずまる父)はぁ? ともあれ、これで道後コースが終了した。今後は、公共交通機関での移動が難しい、城北、城西、城南コースが立ちふさがっている。とはいうものの、別にやり遂げる必要性も全くないわけだし、まあ、やれるところまでやってみることにしよう。 |