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第3部 城北編(1) 第1章 平成16年9月5日(日) 「俳句の里巡り・道後コース」が終わってすでに9ヶ月。今年も暑い夏が過ぎ去ろうとした9月初旬の日曜日。予てから城北コースを巡ってみたいと思っていたのだが、ついに実行することになった。が、今回からは公共交通機関で巡るには非常に苦しい場所が多いことから、かずまるを乗せて、自転車で巡ることにした。名づけて「自転車特攻隊」である。 2番:花木槿(むくげ)家ある限り機(はた)の音(正岡子規)かすり会館(松山市久万ノ台) 享和2(1802)年頃、松山出身の鍵谷カナが独力で作り上げた今出絣が伊予絣のルーツとされる。鍵谷カナといえば、城西コースの中で出てくる。明治28年に正岡子規が人力車で今出をたずねたときの記録「散策集」の中に出てくる。本来は今出の句であるが、機のなくなった今、絣にちなんだこの場所に映されたという。 ここは、かずまるの自宅から最も近い場所で、伊予鉄衣山駅へ行く際には決まって通っている。かすり会館には、週末ともなれば観光バスが押し寄せてくるが、隣には温泉もあって、我が家からも徒歩2分程度で行くことができる。 5番:造作なふ共に消えけり雪仏(大原其沢) 大原其沢は松山藩御船手大船頭を務める傍ら、俳諧の世界にも身を置いたといわれ、その子大原其戎もまた同様の道を歩んだ。大原其戎は明治13年三津に明栄社をおこして、月間俳誌「真砂の志良辺」を主宰した。明治20年には正岡子規が彼の元へやってきて、以後彼を師としたという。 次の恵美須神社へは一度三津浜港へ出て、海岸を北上する。 6番:しくるゝや田のあら株のくろむほと(松尾芭蕉) 恵美須神社のように、かつては海際にあったと思われる神社は結構多い。大原其戎の「戎」は「えびす」とも読む。それが恵美須神社にあるということは、あるいは、この神社からとった俳名なのだろうか。 大原其戎は、この句の前に「花の本大神」と書いている。これは松尾芭蕉を最大限に讃えた言葉だという。 4番:銀杏(いちょう)寺をたよるやお船納涼(のうりょう)の日(河東碧梧桐)定秀寺(松山市神田町) 定秀寺一帯は三津の中心街であり、神社仏閣が並ぶ。かつては、ひとつの市に匹敵する賑わいで、松山方面へも伊予鉄道が今よりももっと連結して、それでも満席だったと言う。現在では三津浜へは迂回以外なにものでもない予讃線も、三津浜を無視できなかったのかもしれない。 河東碧梧桐は明治39年から44年に全国旅行をして、「新傾向俳句」を広めていったが、明治43年8月11日この地の結社三津水戸鳥会の大会に参列した際のものらしい。 3番:木のもとにしるも膾(なます)もさくら哉(松尾芭蕉) 樗堂は、寛永2年(1790)松山松前町の酒造業後藤昌信の三男として生まれ、後に同じ酒造業の栗田家の養子栗田家に入。樗堂の妻は、第六代政賀の未亡人のとら女で、彼女は三津浜の商人松田信英の娘で、後に閨秀俳人として名を知られた羅蝶である。 ここからは、三津湾をぐるりと回って港山方面へと向かう。途中伊予鉄三津駅を過ぎたところで大きく左へと護岸がカーブしている。ここはかつて、伊予鉄道(松山電気鉄道)が三津港へと線路を伸ばしていたという。実際、そこへ行って見ると、それを裏付けるかのように細長い敷地に、白いフェンスで囲われて、「立入禁止、伊予鉄道株式会社」という管理看板がある。ここには、昔どのような風景があったのだろうか。 小説坊っちゃん列車の中では、ここで松山に上陸している。「ぶうといって汽船がとまると、はしけが岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭はまっ裸に赤ふんどしをしめている。」と書かれている。「停車場はすぐ知れた。切符もわけなく買った・・・ごろごろと五分ばかり動いたかと思ったら、もうおりなければならない。」とあるが、なんで5分なの?とよく思っていたものである。 小説「坊っちゃん」をもう一度読んでみる。すると、主人公が三津に着いた直後、地元の人に目的地の学校はどこか?と尋ねて、「2里(約8キロ)ほど離れている」と書かれているではないか。ということは、8キロを5分で走破!?平均速度時速96キロ、「アンパンマン列車」も真っ青である。 これらの答えは子規堂に保存されている坊っちゃん列車の客車ハ1の中に書かれていた。「これは小説としての面白さをねらったもので、実際には28分で走っており、運賃も3銭5厘でした。」まあ、「夏目漱石」の小説は、ページが変われば表記が変わる、といわれているほどであるから、これは、小説としての面白さ、つまり「28分」というよりも「5分ばかり」、「3銭5厘」というよりも「たった3銭」というほうが「ゴロ」が良かったのであろう。ここで「5分ばかり」ということは、東京からの長旅の中では「そんなに時間がかからなかった」という意味なのかもしれない。 7番:笠を舗(しい)て手を入(いれ)てしるかめの水(松尾芭蕉)不動尊(松山市港山町) 松尾芭蕉は実際には松山にやってこなかったが、松尾芭蕉を尊敬する人々の中で、松山市内いたるところに碑が建てられている。また、小林一茶は松山へ2度ほど来ており、「汲みて知るぬるみに昔なつかしや」と「かめの水」にちなんだ句を「寛政七年紀行」に記しているが、この不動尊が「亀水塚」とされている。 不動尊から更に進むと、「三津の渡し」港山側に出る。あるいは、三津側から陸路でなく、船でやってきても良かったと思う。ここは松山市道ということで、無料で渡しに乗ることができる。松山三津の風物である。 ここから港山に抜け、いよいよ梅津寺へと向かう。かずまるを連れて梅津寺へ行くのは無謀ではあるのだが、幸か不幸か先の台風の影響で、伊予鉄梅津寺駅の海側護岸が崩れ、梅津寺パークも臨時休業している。伊予鉄道梅津寺駅は海側の護岸が崩れている関係で、高浜行きの電車が駅手前の渡り線で山側に移動している。 さて、この梅津寺一帯のどこかに8番の碑があるはずだが、よく判らない。JR松山駅にある「俳句の里巡り」表示板では、梅津寺公園と書かれている。これは困った。梅津寺なのか、梅津寺パークなのか、梅津寺パークの中だったら今日は行くことができない。それとも他の場所にあるのだろうか。仕方がないので、先に高浜一帯の碑を巡ることにする。 9番:興居嶋へ魚舟いそぐ吹雪哉(正岡子規)(松山市高浜町) 伊予鉄道を松山観光港へ向かう道路がオーバークロスする橋の上にある。ここから興居島が大きく望まれる。興居島は島であるのに離島ではない。松山市中心部に近すぎるため、離島振興法の適応を受けないのだそうだ。愛媛県にはもうひとつ、離島でない有人島がある。それは現在は今治市となっている旧宮窪町の四阪島である。こちらは全島が新居浜別子銅山の流れをくむ住友企業の所有のためなのだそうだ。 10番:初汐や松に浪こす四十島(正岡子規)(松山市高浜町) 四十島といえば、夏目漱石が小説坊っちゃんの中で「ターナー島」と記した島である。個人的には、勝手にその土地に、自分の住んでいた場所又は見てきた場所の名をつけるというのは失礼ではないかと思う。かつて仕事上で、鹿児島県の人を松山まで車に乗せたとき、桜三里を見て「球磨川渓谷のようだ」と言っているのを聞いたことがある。人間は案外閉鎖的なのか、それとも、人は勝手に身近なものの名称をつけることによって落ち着くのだろうか。 かずまると二人で梅津寺へ戻って、残す碑を探す。そのものズバリ梅津寺へ行ってみると、なんだか違う碑がある。梅津寺公園となっているので、もう一度引き返して、秋山真之の碑に行ってみて、おおっ、あった。 8番:梅が香やおまへとあしの子規真之(しきしんし)(黙禅)梅津寺(松山市梅津寺町) あらら、正岡子規と秋山真之は親友だったのか。ここへ来て初めて知ったが、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」を読んだことがないのがばれてしまったようだ。 息きらし、自転車こいで秋暑し(かずまる父)愚作!! さて、一応目的は達成したわけではあるが、実はこの後の方が大変である。これから、三津から太山寺越えにはいる。かずまるを乗せての行軍は結構きついものがある。途中、後ろからやってきたサイクリング自転車に抜かれていく。 それでも、なんとか峠を越えて、今度は急坂を下りると、甘かった。自転車を降りると、ここからが本格的な坂であった。かずまるも「もう来たくない」という。が、この坂を越えないと4碑が抜けてしまう。 11番:道ゆづる人を拝ミて秋遍路(村上杏史)太山寺(松山市太山寺町) 村上杏史は本名清、温泉郡東中島村(現松山市中島大浦)出身。朝鮮の木浦で新聞記者として働きながら俳句に関心を持ち、高浜虚子に出会ってから俳誌『かりたご』を主宰するようになったという。その後、愛媛ホトトギス会会長や『柿』の主宰となりその300回を迎えたことの記念の碑であると書かれている。 12番:春雨や王朝の詩(う)タ今昔(松根東洋城)太山寺(松山市太山寺町) 松根東洋城は1878年東京築地で生まれる。本名豊次郎。松山中学、第一高等学校、東京大学を経て、明治38年京都帝国大学法学部を卒業。松山中学では5年生のとき夏目漱石が英語教師として同校に赴任、以降指導を受けたという。 13番:菎蒻(こんにゃく)につゝじの名あれ太山寺(正岡子規)太山寺(松山市太山寺町) 14番:八九間空へ雨ふる柳かな(松尾芭蕉) この上に太山寺がある。最後の階段がやけに急坂に見える。が、さしあたり、我々が登っていく理由もないようだ。ここで引き返すことにする。 19番:白芙蓉か細く首のかたぶくにさらさら時の流れやまずも(五百木小平) 五百木小平は本名正教、明治28年 松山市東長戸に生まれ、大阪市で炭屋を開業したり、ガス会社に勤めたりし、戦災で家を失い松山へ帰り、歌人として色々な歌集を残した。 すぐ右手にはJR予讃線があり、列車からも眺められるが、ここは三光神社へと続く道である。更に東側の県道に「三光前」というバス停がある。 1番:永き日や菜種つたひの七曲り(正岡子規)高崎公園(松山市山越6) 本日の最終目的地、1番と2番の間に自宅がある。ぐるのと回ってきて、最終地点へとやってきた。 ここでいう「七曲り」とは、加藤嘉明が松山城下町を築く際に、姫原、鴨川のあたりで無理やり川を曲げさせたことをいい、現在は河川改修により、川のながった様子をうかがい知ることができないと、碑の説明文にある。 足立重信が岩堰で川を付け替えたことは有名だが、その元の川が、現在道後温泉の放生園下を流れている川だとずれば、そのまま道後アーケードをくぐり、水口酒造あたりから開渠となり、愛媛大学北側を流れて、最終的には宮前川となる。しかし、愛媛大学理学部北東端では、護国神社方面への大川ともつながっている。こちらは、「道後村めぐり・寺前コース」よろしく、そのまま和気浜へと流れ、先の「七曲り」にあたる。 石手川の流れを代える前は、石手川は現在の平和通を流れていたといわれ、今でもその水脈が、六軒家付近にあるのだということを聞いたことがある。案外松山も太古は水都だったのかもしれない。 |