松山の句碑巡り

 
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第3部 城北編(2)

第2章 平成16年9月20日(月・祝)

「俳句の里巡り」も城下コース、道後コース以外は、怒涛の碑攻撃にはならない。城北コースの場合は、前回15箇所回れば、あと5碑である。が、街の中心部でないだけに、1碑だけが離れているということもありそうだ。城北コースにも1碑だけは自家用車でいかなければならない場所がある。権現温泉の近くにあるのがそうだ。まあ、そのうち行くこともあるだろうから、それ以外を今日中にやっておくことにしよう。

と、思ったのだが、最初の20番姫池の場所がさっぱりわからない。今日も自転車特攻隊で出かけたのだが、池が思ったより大きい。それに、丘をやっとこさ登りきったところでは集中力もない。池を端から端まで探す力が湧かないのである。仕方がないので、次の碑に向かう。

18番:木の芽日和慶事あるらし村人の(森田雷死久)常福寺(松山市平田町)

森田雷死久は本名愛五郎、明治5年1月26日生、伊予郡高柳村(現松前町)に生まれる。京都仏教大学林へ入学し、明治36年に常福寺住職となる。つまりは、当然ここにあって然るべき碑のようだ。

また、森田雷死久は梨栽培などの産業振興にも貢献し、常福寺の寺領2反歩あまりを梨園とし、明治42年には温泉郡小野村(現松山市)にも「赤々園」という梨園を開き、更には大正2年「伊予果物同業組合」を結成し、初代専務となったという。なかなか進歩的な住職である。

なけなしの散財をして梨園か(かずまる父)いつものごとく罰当たりな奴

16番:ものゝふの河豚(ふぐにくはるゝ悲しさよ(正岡子規)浄福寺(松山市堀江町)

「俳句の里巡り」にあたり、「城下コース」と「道後コース」は、松山市教育委員会がサイト内である程度の情報を提供してくれているが、その他のコースは、JR松山駅前の地図だけを参考にして巡っている。その中で、碑の隣にある説明文を書いた白い板は大変参考になる。ここの説明文は、なんと、これまでで初めて手書きである。浄福寺の住職が書いたものだろうか。

先ほどの浄福寺は、海に近いところにある。今日の最終回は、勝岡公園であるから、このまま海沿いに西進すればよい。我々は一旦海に出ることにした。目の前には「粟井坂」が間近に見え、ちょうど特急しおかぜ20号が今治方面へと走っていく。次にやってくる列車が9Dアンパンマン列車である。それまでに勝岡公園へ行って、線路沿いまで出る予定である。

15番:十月の海ハ凪いだり蜜柑船(正岡子規)内新田公園(松山市勝岡町)

私の自宅は久万ノ台であるが、「台」ではなく、どちらかというと「底」である。家を建てるときに「杭打ち」をするためボーリングをしたら、なんと6メートル以上も地盤が出てこなかったという。つまり、このあたりは、かつては和気浜の遠浅の海岸だったのではないか、と思っている。それが年月とともに堆積が進み、今のようになったのではないか、と思っているわけである。

 
第3部 城北編(2)

第3章 平成17年5月28日(土)

「俳句の里巡り」の城北コースは残る2碑の場所がわからず、結局そのままになってしまった。が、このままではいかないと思い、松山市教育委員会へ問い合わせて、正確な場所を尋ねた。

この日は後の城南コースでも出てくるが、岩堰からずっと石手川を南下して、城南コースの第1番目の碑に行って、街中をぶらぶらしながら、最後は自転車で、昨年9月に行きつくことができなかった姫池へ再びやってきたのであった。

20番:軽之神社・軽太子の塚姫池(松山市姫原)

古事記によると、允恭天皇の皇太子である軽之太子は同母妹軽太郎女と許されぬ恋に落ち、太子は伊予の国に流され、後から軽太郎女が追いかけてきてもこの地で心中したことになっている。

現在の姫原という地名は、多分ここから来ていると思われるが、また、軽太郎女は衣通郎女(ソトホリノイラツメ)、衣通姫(ソトホリヒメ)という別名があることから「衣山」という地名もひょっとしてこの地から?とも思われます。

清水ぬけ、姫池めざし軽からぬ(かずまる父)判るような判らんような・・・

 
第3部 城北編(2)

第4章 平成17年5月29日(日)

途中挫折もあって、かなり時間のかかった城北コースであったが、昨日城南コースを1碑巡り、今日は午後から城西コースを一気に回る予定でいる。なんとか城北コースを回っておかなければ、ということで、結局最後は自家用車のお世話になった。この場所は道後の県民文化会館から一気に北上し、白水台から堀江へと向かう道路上にあることはわかっている。しかし、昨年一度通ったのだが、見当たらなかった。要するに、この道は新しいので、旧道にあるに違いないと思い、出かけてみると、やはりそのとおりであった。

17番:大伊豫の友國の湯にひたりつつほのほのとしてものをこそおもへ(吉井勇)松山市福角町(ホテル清泉前)

吉井勇は明治19年東京生まれ、碑によると、昭和8年に離婚した失意から高知や瀬戸内を放浪したとされている。「友國の湯」とは現在の権現温泉とされている。失意の時にはここへ来て湯に浸かるのが良いのかもしれない。

清泉を、四季が巡って夏近し(かずまる父)うーん・・・

ともかく、これで城北コースが終了した。あとは、城西コース12箇所と城南コース17箇所のうちあと16箇所の28箇所となった。今日は引き続き午後から城西コースに出かけるつもりである。

 

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