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第4部 城西編 第1章 平成17年5月29日(日) 「俳句の里巡り」も城下コース、道後コース、城北コースと回り、全133箇所のうちあと28箇所となった。ここまでくれば、あとは全てを制覇するしかない。 まずは、自転車特攻隊で西環状線を南下していく。JRと大峰ケ台への坂を越えると山内神社がある、というてころてで山が立ちはだかる。もしかして、更に山を登るの?と思ったとき、その脇に碑があった。 12番:西山に桜一木のあるじ哉(子規)松山市南江戸5丁目(山内神社) 山内神社は碑によると、享保17年(1732)の松山大飢饉の責任を問われて、松山藩主松平定英が謹慎を命じられ、急逝した際に、目付役山内与右衛門も切腹したが、後に知行を回復した。文化11年(1814)に松平定通が主君への忠義を讃えてこの神社を建立したとある。江戸時代も飢饉が起こると、藩主が責任を問われることになっていたということらしい。 11番:花見れハ齢そのふる世の人の老ぬ薬や桜なるらむ(石井義郷)松山市南江戸5丁目(大宝寺) 朝日八幡神社を通り越して西側、途中に公園がある。「だいほうじ」と読む。開創は、大宝元年(701)豪族越智玉興の建立説と、当地の角之木長者建立説があるらしい。 石井義郷は文政9年(1812)に生まれた松山藩士で歌人。ここの桜も例の姥桜伝説と関係があるらしい。 1番:御所柿に小栗祭の用意かな(子規) 雄郡神社は元々はここの地名でもある「小栗神社」又は「小栗正八幡宮」ともいい、松山八社八幡のひとつでもある。我々が行ったときには、ちょうど祭りの準備(?)をしていた。ちなみに、ここは伊予鉄道(坊っちゃん列車)の祈祷本家である。正岡子規もこの神社が氏神だったというが、なにか関係でもあったのだろうか。 2番:じゅず苡(だま)や昔通ひし叔父が家(子規)松山市土居田町(鬼子母神堂) なんだか怖い名前であるが、周辺は人家の建て込んでいる。正岡子規の叔父が余戸に住んでいたこともあって、今出へ行く際に読んだとされ、当初は「じゅず苡」が「鳩麦」だったと碑に書かれている。 3番:行く秋や手を引きあひし松二木(子規)松山市余戸東5丁目(三島神社) ここの三島神社は昨年10月18日の松山出張で偶然知った。それにしても、三島神社の数の多いこと。 松二木とは余戸手引松のことで、地上5メートルほどのところで2本の松がH型につながっていて、松山市の天然記念物に指定されていた。その松も現在は枯死し、現在はH型部の場所のみが保存されていると言う。 10番:梅か香の満ちわたりけり天か下(宇都宮亀石)松山市久保田町(履脱天満宮) 今回の城西コース決行の元となった場所。松山の七不思議にも挙げられている。菅原道真が京都から大宰府に左遷されるときに遭難し、今治市桜井の綱敷天満宮からここまで陸路を移動してここから九州へ船出した。そのとき履を脱いで休んだと言うのがこの天満宮の由来だと言う。 さて、松山の七不思議の中には「久保田町の履脱天満宮の池は昼間でも星が映って見える」というものがある。それではということで行ってみた。ところか゜、問題の池は水がない。肩透かしを食らってしまった。気を取り直して次へと向かう。 松山の不思議な話は井戸枯れか(かずまる父)いつものごとく罰当たりな奴 4番:若鮎の二手になりて上りけり(子規)松山市出合(出合橋北) 履脱天満宮から適当に自転車に乗って南下していたらこの場所へ着いた。ここは松山市と松前町を結ぶ場所で、国道56号とかつての旧国道、伊予鉄道郡中線とが並んで走っている。 正岡子規は現在の松前町にある友人武市庫太宅へよく遊びに行ったという。二手とは重信川と石手川の合流点。東京にいたときの子規がこの場所を懐かしんで詠んだ句であるという。松山市内から南予方面へ行く際には、現在もこの橋を越えると松山市を抜ける。逆に南予方面から北上してこの橋を渡ると松山市に入る。そういう旅の出合がそのまま場所となったのかもしれない。 5番:樗(おうち)さけり古郷波郷(こきょうはきょう)の邑(むら)かすむ(水原秋桜子)松山市出合(出合橋北) 水原秋桜子は東京帝国大学医学部卒業し、昭和医専の教授となる一方、俳人としての名声も得る。が、「ホトトギス」の高浜虚子らと作風で対立し、「誌「馬酔木(あしび)」を主宰する。このように水原秋桜子は松山とは直接は関係ないが、彼の門下生である波郷が垣生村西垣生だから、その関係でここに碑が建てられたのかもしれない。 9番:朝鵙(もず)ニ夕鵙ニかすり織りすゝむ(霽月)松山市西垣生町(鍵谷カナ女頌功堂) 出合橋からは重信川をずっと下って西垣生へと向かう。他にもあるのだが、協力したくないのがありありと見える碑というのがある。ここも門を閉じて入れなかった。かずまるだけを強行突破させ、私は外から撮影したが、なぜそんなところを俳句の里巡りの場所にするの?と思う。 7番:初暦好日三百六十五(村上霽月)松山市西垣生町(三島神社) ここにも三島神社がある。正岡子規は村上霽月をたずねていったという記述があるにもかかわらず、正岡子規らとは一線を画しているような印象を持つ。 8番:酔眼に天地麗ら麗らかな(村上霽月)松山市西垣生町(三島神社) これが村上霽月の漢詩に関する句で、「詩人李白は酒浸りだという意味の漢詩」だという。 9番:村上霽月邸跡松山市西垣生町 三島神社の隣にある。ここに正岡子規らがよく村上霽月をたずねていったのかと思うと、100年の時が一気に縮まってくるような錯覚を覚える。俗世間の表現で申し訳ないが、いわゆる「坊っちゃん列車に乗って明治時代にタイムとリップ・・・」という印象である。 今回は、必殺「住宅地図」を持ち出していたこともあり、城北コースのようなこともなく、一気に終了した。この後、松山空港下のトンネルを抜けて帰った。 |