松山の句碑巡り

 
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第5部 城南編

第1章 平成17年5月28日(土)

「俳句の里巡り」もいよいよ城南編を残すのみとなった。実は1番の碑は、城下編の時に見つけ、最終的には城西編の前日に行ったものである。

この日、実母の見舞いに行った後、岩堰付近から石手川沿いに石手川公園駅までずっと下ってみた。城南編1番の碑は、旧国道11号の南側にある。

1番:新場処や紙つきやめばなく水鶏 正岡子規
そゝろ来て橋あちこちと夏の月 五百木飄亭
松山市日之出町(石手川公園)

江戸時代、このあたりは素鵞村小坂といい、高知や周桑方面から紙漉すき職人を呼んでいたという。このことから詠まれた句らしい。一方、五百木飄亭に関しては正岡子規との親交が厚かったことと、彼の生家がこの場所の西方にあったことからという。

岩の堰、親子で下る草清水(かずまる父)よく判らん!

よくは判らんが、「俳句の里巡り」全碑散策までは、あと16碑である。

 
 
第5部 城南編

第2章 平成17年6月4日(土)

「俳句の里巡り」の中で、城北地区に含まれる場所に住んでいる我々にとって、最も行きにくい場所というのが、この「城南編」である。ここは気長に行かなければならない。

この日は、親子3人で今年正月にオープンした「道後ぎやまんの庭」で昼食をとって、妻が夜勤で帰った後に2箇所だけ巡ることにした。実は明日、かずまるを自転車に同乗させて、城南地区のうち、石井地区方面を巡ってこようと考えている。今日はその行軍を少しでも楽にしようという2箇所を巡ろうと思う。

「道後ぎやまんの庭」を出て、西循環バスで祝谷から乗車する。妻はこのまま帰宅するが、我々は喜与町で下車して、一番町1丁目から川内行きのバスに乗換え、南小坂バス停で下車する。ここに多聞院がある。

2番:倉のひまより見ゆ春の山夕月が(野村朱燐洞)松山市小坂2丁目(多聞院)

野村朱燐洞は、本名野村守隣もりちか。ここ多聞院は野村家の菩提寺という。が、この多聞院は松山市道建設で立ち退きになり、現在近くに移転中である。種田山頭火も野村朱燐洞の墓を訪ねて、松山の地にやってきたと言うが、野村朱燐洞の句もまた、自由詩である。

この多聞院は、松山市道のバイパス建設により用地買収にかかり、少し南にある拓南中学の前に引っ越すのだという。その予定場所を横目で見ながら南下し、城南高校へと向かう。6月の日差しは結構強い。かれこれ1時間ほどかけて、とろとろと歩く。

3番:れうらんのはなのはるひをふらせる(野村朱燐洞)松山市北久米町(松山城南高等学校正門前)

「れいらん」とは、「りょうらん」で花の咲きみだれるさまをいう。この句も五七五になっていない。私のレベルからして、定型句になっていない俳句というのは、その価値がさっぱりわからない。

日の盛りを、親子で今日も巡る道(かずまる父)川柳か?

今日はこれでおしまい。その後は福音寺駅へと出て、衣山まで帰った。残すは14碑は。明日の自転車特攻隊が本番だ。

 
 
第5部 城南編

第3章 平成17年6月5日(日)

今日はいよいよかずまるを自転車の後ろに乗せて、長距離サイクリングをしてこようと思う。城西コースよりも長距離行軍になると思うが、まあ、いけるところまで行ってみることにしよう。

16番:荒れにけり茅針(つばな)まじりの市の坪(正岡子規)松山市市坪南2丁目(素鵞神社)

明治25年、正岡子規は7月〜8月の間帰郷し、7月下旬に伊予郡永田村の友人武市庫太を訪ねている。これはそのときの句である。「荒れにけり」とは、当時石手川の下流域は度々氾濫していたことによる。今でも小野川の北石井付近ではよく氾濫している。シミュレートで出合付近で決壊したら、JR松山駅付近でも2メートル水没するという。

坊っちゃんスタジアムを横目に過ぎて、重信川まで出ると、ちょうど飛行機が着陸するところであった。市坪から森松まではものすごく遠いイメージがあるのだが、それは森松の話であって、松山中央高校までだと、思ったより近かった。地図で見ると、国道33号も重信川も南東方向へ伸びている。地図で国道33号椿神社入口、坊っちゃんスタジアム、国道33号重信川大橋を結ぶと、頂点の国道33号椿神社入口では120度ほどの角度がありそうで、その底辺にある松山中央高校がいやに近く感じられる。

12番:内川や外川かけて夕しぐれ(正岡子規)松山市北井門町(立石橋北詰)

松山中央高校から北上を始めて、最初に渡る川がこの内川である。外川というのは重信川らしい。

13番:賽銭(さいせん)のひゞきに落(おつ)る椿かな(正岡子規)松山市居相町(伊予豆比古命神社)

先ほどの立石橋から伊予豆比古命神社までは、想像以上に近かった。そして、ここは、城南コースの大御所で、3箇所の句碑がある。ここを過ぎれば、あとは1箇所である。

「賽銭のひゞき」とは、まさに毎年旧暦正月「椿さん」のことだろう。例年、この3日は賑わい、交通機関も警察も総動員となる。ここには、「こどもおみくじ」があって、かずまる曰く「またここへ来たい」要するにおみくじを引きたいということなのだろう。

小休止、おみくじよりもカキ氷(かずまる父)またまたよく判らん!

14番:椿祭はたして神威雪となる(品川柳之)松山市居相町(伊予豆比古命神社)

品川柳之は本名三好柳之助 、明治341015日北宇和郡吉田町に生まれる。「椿さん」の頃は1年で一番寒い時期だといわれている。「椿さん」が終われば寒さが底を尽くといわれることから、多分このときも雪が降っていたのだろう。

15番:むかしむかし日本のくにに陽か照りて父のこゑにてもみすりの唄(大野静)松山市居相町(伊予豆比古命神社)

大野静は明治25年上浮穴郡父二峰村(現久万高原町)に生まれる。月刊歌誌「にぎたづ」を編集、主宰して、愛媛歌人クラブ会長として活躍したと言う。

17番:真宗の伽藍いかめし稲の花(正岡子規)松山市拓川町(相向寺)

明治28102日、愚陀仏庵で静養していた正岡子規が、石手川を散歩したときの句だという。また、拓川といえば、子規の叔父加藤拓川が浮かぶが、拓川町とは彼の偉業を称えて命名したものと言う。彼の墓が相向寺にある。

本日の最終ポイント。これで、後は南高井付近の4箇所と伊予鉄横河原線沿線の4箇所。前者は砥部動物園にでも出かけた際に、後者は横河原線遠征時に、特に後者は昨年のようなフリー切符親子で600円コースが出れば・・・ともかく、残すはあと8箇所となったのであった。

 

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