【01〜84】歌仙「夏行寺」の巻渡部仲居捌(他83句)
2009年6月7日行軍D 歌仙「夏行寺」の巻渡部仲居捌(他83句)この碑の隣には「歌仙は36歩也。一歩も後に帰る心なし。行くにしたがひ心の改まろは、ただ先へいく心なれはなり 芭蕉(中略)連句の本質は芭蕉のこの言 葉に集約されている(以下略)」と書かれている。 というより、ここには84句が書かれてあり、実に松山市内約600句の約7分の1がここにあることになるし、連句といえば、河中町両新田神社にも1碑37 句がある。 なお、この碑には「ロボット」とか「ダウ」というような現代用語がふんだんに出てくるのがおもしろい。それは、それで時代を表していて楽しいと思う。 【85】鎌倉のむかしを今に寺の鐘(前田伍健)
2003年11月30日行軍@A(道後村めぐり(15)、俳句の里・道後(13)) 前田伍健は高松市生まれで、伊予鉄道に勤め、野球部として高松市のチームと戦って負け、その晩の懇親会で敵を討つべく、即興で踊ったのが松山野球拳の始ま り、とされている。いずれにしても、石手寺19碑103句(確認済のもの)の中にあって、道後めぐりでは堂々スタンプの句碑となっているのだからたいしたものである。 【86】南無大師石手の寺よ稲の花(正岡子規)
2003年11月30日行軍A(俳句の里・道後(14)、元道後(14)) 正岡子規は明治28年に発病、療養後、8月25日に松山へ帰省し、同年4月に松山へ英語教師として赴任していた夏目漱石の愚陀仏庵に転がり込んだ。そし て、松山を離れる10月18日(出港したのは翌朝)までそこに住みついたのだが、その9月20日から10月9日までの間に5回松山市内を散策して、その内 容を「散策集」に納めている。その1回目である9月20日午後に柳原極堂と愚陀仏庵を出た子規は、「玉川町より郊外に出てける見るもの皆心行くさまなり」と記している。現在の湯渡橋か ら石手寺方面へ抜けている。 そして、この句を含む4句を詠んで、「山門の前の茶店に憩ひて一椀の渋茶に労れを慰む」と書いている。現在我々が石手寺へかずまると来たときには、ここの 焼餅を食べることが恒例になっている。 【87】葉桜の中の無数の空さわぐ(篠原梵)
2003年11月30日行軍A(俳句の里・道後(17)、元道後(17)) 篠原梵は伊予市出身で、東大卒業後中央公論社を経て、中央公論事業出版社長となる。案内板には「俳句は臼田亜浪に従事し、独自のデフォルメで迫力ある斬新 なリズムを編み出し、俳誌「石楠」全盛期の花形として活躍した」と書かれている。また、本名は敏之で、梵(ぼん)とは、松山地方で子供のことを「ぼん」ということからつけられたといわれている。個人的推測では、本名が「敏」だから「び ん」という音もあったのではないか?と思ったが、如何なものか。 【88】身の上や御鬮を引けば秋の風(正岡子規)
2003年11月30日行軍A(俳句の里・道後(15)、元道後(15)) この句も9月20日午後に柳原極堂と石手寺等を巡ったときに詠んだもので、散策集に納められている。隣にある案内板には「その時拾った御くじは「24番凶、病長引く也」とあり、我が身にひしひしとあたりたるも不思議也なり、と当日の散策集に記している」 と書かれている。 【89】祭芭蕉翁冢(表)宇知与利て波奈以礼佐久戻牟女津波几(裏)
2003年11月30日行軍A(俳句の里・道後(16)、元道後(16)) 松尾芭蕉は愛媛に来ることはなかったが、その影響力が大きいということは、松山市内の句碑を見ればよく判る。この句の説明文によると、「打ち寄りて 花入れ探れ 梅椿」ということで、「花器にいけた梅椿に春の訪れを探ろう」という意味らしい。「これを彫棠が門人の越智擲瓢(てきひょう)に伝え、その孫青梔(せい し)が明和7年(1770年)芭蕉没後77年に石手寺の境内に埋め「花入塚」を建てた」ということだから、歴史のある句碑である。ただ、この句は連句の一部であり、松山地方では連句が盛んであることをみても、やはり松尾芭蕉の影響力は大きいものがある。 【90】見遙かす松山城や寺の秋(原田則人)
2005年8月18日行軍B 石手陶苑前ということなので、再び石手寺へとやってきたのだが、なんてことはない。まさに石手寺の隣であった。ただ、この人はよく判らない。今回の句碑め ぐりでは、検索サイトで調べても判らない人々が多い。ひょっとすると、現代に生きている人達も多いのかもしれない。もしそうだったとしたら、俳都松山の地 位は不動だと思う。【91】麗らかや平和の碑塚とこしへに(門屋春風)
2005年8月18日行軍B 上の写真で寝転んだりして余裕のかずまるも、この碑の向こうにいる犬に恐れをなして・・・【92】やま知古えて一人由希登主の手ニす加れる身ハ安介志(西村清雄)
2009年6月7日行軍D 西村清雄については、松山市ホームページによると、「明治4年松山北京町に誕生。明治21年、大阪で英語を学び、大阪基督教会で宮川経輝の教えを受け、明 治23年に帰郷すると、宣教師のジャドソン女史が夜学校の設立を考えていたのに応え、「普通夜学会」を開く。明治25年、21歳で校長となり、「松山夜学 校」と改称し、寄宿生と一緒に働き、寝食をともにする日々が続く。昭和20年からは東雲中・高の校長となり、県教育文化章などを受章している。昭和37 年、松山市名誉市民の称号を贈られた。(一部省略)」と書かれている。【93】花はいさ鐘つかりけり石手寺(関谷嘶風)
2009年6月7日行軍D 愛媛県生涯学習センターサイトでは、「ホトトギスで戦後活躍した俳人」と書かれている。また、1977年に「鐘韻―句集」を出版しているようだ。 (Amazonでは「現在お取り寄せできません」と書かれている。) |
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