松山句碑めぐり(道後B)

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【02】持田町一丁目 愛媛大学附属中学校(道後)

【103】ここに存在せし青春、友情、希望一切のものの不滅を信ず(中村草田男)

2009年6月7日行軍D

ま つやま句碑めぐりをしたときは、学校内にある句碑を全て除外したものだ。理由は単純明快、校内に無断で入ることはあまりよろしくないからである。それはそ うである。昨今の社会事情では、中年親父がそんなことをしていたら、不審者情報に載せられてしまうかもしれない。かといって、わざわざ手続きをとって句碑 を拝ませていただくほど高尚な文章も書けない。だから、あまりめだたないように校外から撮影するにとどめることにした。

が、ここの句碑は学校の敷地内ではあるものの、外壁の外側に建てられている。これなら私が撮影したって、何の問題もあるまい。

さて、中村草田男といえば、やはり「降る雪や明治は遠くなりにけり」である。道後村めぐりでも最近2箇所が増殖した際に取り入れられて、道後の墓地にスタ ンプが設けられた。が、この句碑、実際には東京青山の青南小学校にある。「東京都港区ゆかりの人物データベース」の中で「この句は昭和6年(1931)大 学生だった草田男が母校・青南小学校を訪問した際に詠んだものです。」と書かれている。が、一方で「大正14年松山中学、松山高等学校より東大独文科に入 学」とあるから、結構転居していたらしい。本名は中村清一、父親は当時の清国福建省アモイの日本領事館で清国領事だったらしく、4歳の時に母親の故郷であ る松山へ帰っている。まあ、句碑そのものに「松山高等学校跡」と書かれているわけであり、この場所に句碑があってしかるべきものらしい。

【03】石手一丁目 岩堰公園道 後

【104】鮎寄せの堰音涼し寶川(酒井黙禅)

2007年7月29日行軍@(道後村めぐり(17))

酒 井黙禅といえば、この句碑めぐりでは14碑あり、松山市内のいたるところでその句碑を見ることができる。福岡県八女郡水田村生まれで、本名和太郎。熊本第 五高等学校から東京大学医学部を卒業し、東大俳句会に入って句作を始めた。大正9年3月に日赤病院長として松山へ赴任し、昭和23年までの29年間松山赤 十字病院長を勤めた。

その後は、3年ほど野村町立病院長を務めた後、田高庵(現在の道後多幸街)で過ごしたという。

ここで、酒井黙禅と対比したくなるのが夏目漱石である。彼の場合は、どうも松山が好きになれなかったようで、1年ほど松山に赴任した後に熊本へ転勤して 行ったことや、その後の小説坊っちゃんから見てとれる。それを考えると、酒井黙禅は松山がよっぽど気に入ったのだろうかといつも思う。

かつての石手川は岩堰付近から道後温泉方面と現在の湯渡方面へと分岐していたという話がある。湯渡方面の水系は川というよりも湿地帯だったらしく、それを 松山城築城後、足立重信が湯渡から人工水路をめぐらせて、いわゆる排水路としての機能を持たせて、松山市内の外堀としての機能と耕地整備を行ったと推測さ れる。

【04】常光寺町 風土記の丘道 後

【105】薫風や風土記の丘を斯て尚(富田狸通)

2007年7月29日行軍@(道後村めぐり(16))

風土記というものは,諸国の地誌であるが、残念ながら松山にあるものは一部分が残っているに過ぎない。ただ、その中に道後温泉の記述があるのだという。

石手寺から伊佐爾波神社までの山間の道は風土記の丘と呼ばれていて、道後村めぐりでもここを歩くことになる。元は峠部分が狭い農道で、まさにへんろ道の様 相を呈していたのだが、現在車が通行できるような道を整備している。元武道館の広大な敷地になにか建設でもするのだろうか。

作者である富田狸通は、明治34四年2月1日、温泉郡川上村大字松瀬川で出生。本名、富田寿久。大正13年に伊予鉄道電気会社に入社、その後昭和17年の 配電統合令により電気事業が分離され、伊予鉄道に入社している。

その名(ペンネーム)のとおり、狸が好きらしく、狸を飼ったり、趣味研究として「たぬきざんまい」を発刊したりしている。

【05】石手五丁目道後

【106】柿み天も美かんを見て毛涙可那(御手洗不迷)

2005年8月18日行軍B

なんと、民家の中に碑がある。御手洗不迷は新聞記者らしいが、これが本名とは思えないから、俳句でのいわゆるペンネームだろう。明治28年3月に子規が墓 参りで帰省したときに、松山高等小学校教員でつくる松風会が柳原極堂を通じて懇親会を開くことになって、教員以外から柳原極堂、御手洗不迷らが入会したと いう。

なお、道路拡張工事で、この家は立ち退きになったらしく、現在は存在しない。

【06】道後公園道後

【107】温泉をむす不誓い毛同之石清水(松尾芭蕉)(道後公園湯釜薬師上)

2005年10月9日行軍B

道後公園湯釜薬師付近には、「道後村めぐり」「俳句の里巡り」併せて相当の句碑がほとんど乱立状態にある。句碑の内容を探すだけでも時間がかかるのに、な んとしたことかこの句碑が見当たらない。我々が毎週通う道後温泉駅から程近い場所にあるのに、最後まで残ってしまったのもこういう理由による。結局、意を 決して湯築城跡へ登っていったところ、その中腹にひっそりと建っている句碑を見つけたのであった。
 松尾芭蕉が松山に与えた影響ははかりしれないものがある。特に奥の細道では四国にやってきたわけではないというのに、彼を慕う者たちによって、これだけ の句碑があるのだからすごいことである。


【108】元日や一系の天子不二の山(内藤鳴雪)(公園西入口)

2003年11月8日行軍A(俳句の里・道後(4)、元道後(4))




【109】半鐘と並んで高き冬木哉(夏目漱石)

【110】ふゆ枯や鏡にうつる雲の影(正岡子規)(子規記念博物館側)

2003年11月8日行軍@A(道後村めぐり(9)、俳句の里・道後(2)、元道後(2))

正岡子規と夏目漱石が松山で暮らした日は、そう長いものではなかったが、なぜかこの二人の碑が並んでいると落ち着く。

正岡子規の句は、明治28年に余戸の俳人森円月のために詠んだものとされている。余戸の森円月といえば、同年正岡子規が最後に松山へ帰 省したときの散策を書にした「散策集」の最後、今出訪問の中で垣生の村上霽月宅の帰りに寄っている。

それを後日夏目漱石が、その句に応じて、後日森円月へ送ったものだという。




【111】寝ころんで蝶泊らせる外湯(小林一茶)(子規記念博物館側)

2005年10月9日行軍@A(道後村めぐり(10)、俳句の里・道後(3))

小林一茶といえば、どちらかというと貧困の句というイメージが湧くのだが、結構松山へもやってきている。庚申庵で出てくる俳人栗田樗堂 をたずねてきたときに読んだ句である。


【07】道後公園(子規記念博物館前)道 後

【112】足なへの病いゆとふ伊豫の湯に飛びても行かな鷺(さぎ)にあらませば(正岡子規)

2005年10月9日行軍@A(道後村めぐり(8)、俳句の里・道後(1))

鷺といえば、道後温泉の由来を意味する。足に傷を負った鷺が温泉で癒しているのを見て、その湯に何か効用があるのかと思って、同じようにしたところ、色々 な病が治ったという話は有名である。これらのことを含め、道後温泉が日本最古の温泉とされている。この句は、正岡子規が晩年病のため、歩くことができなく なったことから、鷺のように道後温泉で癒したいとした句だという。


【08】義安寺道後

【113】このほたる田ごとの月をくらべ見ん(松尾芭蕉)

2007年7月29日行軍@(道後村めぐり(14))

句碑を探すのに時間がかかった。ちなみに、神社仏閣の場合、外車とか高級車が多い中で、この車は立派?

【09】道後姫塚 平和記念公園(元武道館)道 後

【114】悲しみを忘連てわ多る太平洋平和能繋支むね耳ひ素め天(加川豊彦)

2005年10月9日行軍B

加川豊彦は詩集「日本社会詩人詩集」に名を連ねているが、内村鑑三とともにキリスト教の名も出てくる。水野廣徳に至っては第二次世界大戦が勃発したときの 東京大空襲を予測していたから、そのあたりが平和記念公園の碑とされたのだろう。


【115】世に媚びず人に語らず我は我が正しと思ふ道を進まん(水野廣徳)

2005年10月9日行軍B

水野廣徳は1875年松山生まれ。著書「此一戦」は日露戦争日本海海戦の唯一のルポルタージュといわれ、バルチック艦隊との一戦などを克明に記している。 第一次世界大戦後は反戦主義者として、謹慎処分などを受けている。

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