松山句碑めぐり(道後A)

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【01】石 手2丁目 石手寺(道後)

【94】石据える手に来て蟻が喰ひさがる(尾崎行信)

2009年6月7日行軍D

「愛媛県玉串料違憲判決における尾崎行信裁判官の意見」というのがある。内容は簡単に言うと「本件は回数及び金銭的にはき憂に等しい、が、我々が自らの歴 史を振り返れば、そのように考えることの危険がいかに大きいかを示す実例を容易に見ることができる。」なるほどね。


【95】うれしい古ともかなしい古とも草しける(種田山頭火)

2009年6月7日行軍D

放浪の俳人と言われる種田山頭火が松山へやってきたのは、松山出身で山頭火が慕っていた野村朱燐洞の墓参りであったとされている。野村朱燐洞は自由律俳句 の天才俳人と言われていたが、26歳で急逝した。

つまり、種田山頭火の自由律俳句の起源が野村朱燐洞にあることになる。また、種田山頭火は地蔵院の住職と親しく、ここをよく訪ねていたという。


【96】撞きす天し鐘の余韻乃桜可那(有馬白陽)

2009年6月7日行軍D

有馬白陽は富田狸通さんなどと並び、昭和後期の松山俳句界の中心人物であり、俳画の会を始めたという。


【97】石手寺の松を拝みて年ふ(宇田零雨)

2009年6月7日行軍D

宇田零雨に関する著書を調べてみると、「芭蕉語彙」「連句実習」「連句作法」などが見られる。つまり、松山市内で見られる連句の中心人物であるらしい。


【98】御佛の瞳は慈悲に輝きて悩みと罪の子等に微笑む(重松俊章)

2009年6月7日行軍D

重松俊章は大正から昭和にかけての東洋史学者で、昭和19年に九州帝国大学を定年退官した後、石手寺の第41世住職となった。


【99】故郷の山に御霊よ帰りませ永久奈る平和を共に祈らむ(藤井徳二郎)

2009年6月7日行軍D

この場所は石手寺内のパコダにある。パコダとは、東洋建築の「塔」のことで、色々なサイトを見ると、ミャンマーなどの表記が出てくるから、そのあたりの仏 塔と思われる。この藤井氏のことはよく判らないが、あるいは、戦地に赴いたときの様子を表現したものかもしれない。


【100】伊豫の秋石手の寺の香盤に海のいろして立つ煙かな(与謝野晶子)

2009年6月7日行軍D

与謝野晶子は、松山市史によると、昭和6年11月に松山市へやってきている。その際に石手寺に寄ったのであろう。


【101】石手寺や平和観音おはします香の煙は御山め久りて(与謝野晶子)

2009年6月7日行軍D


この句碑は、上の句碑の向かって左側にある。つまり、同一句碑である。

また、道後村めぐりでは、7番(旧2番)湯神社で「道後なる湯の大神の御社のもとにぬる夜となりにけるかな」と詠んでいる。実際にはこ の後ろに「鮒屋(ふなや)旅館にて」と書かれているらしいのだが、当のふなや旅館にはそういう句碑がない。



【102ここに存在せし青春、友情、希望一切のものの不滅を信ず(中村草田男)ここに存在せし青春、友情、希望一切のものの不滅を信ず (中村草田男)ここに存在せし青春、友情、希望一切のものの不滅を信ず(中村草田男)ここに存在せし青春、友情、希望一切のものの不滅を信ず(中村草田 男)ここに存在せし青春、友情、希望一切のものの不滅を信ず(中村草田男)ここに存在せし青春、友情、希望一切のものの不滅を信ず(中村草田男)】一山の 堂塔高き大夕立(富田狸通)

2009年6月7日行軍D

この句碑は、上の句碑の向かって左側にある。つまり、同一句碑である。

石手寺の三重の塔の情景を詠んだものであるという。前述のとおり、伊予鉄道電気会社に入社から配電統合令により、伊予鉄道に入社してい る。そういえば、前田伍健も伊予鉄道出身である。松山の先生方だけでなく、こういった松山の古い企業などでも、このような文化がしっかりと根付いているこ とがよく判る。


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