【01】子規忌過ぎ一遍忌過ぎ月は秋(酒井黙禅) 【02】色里や十歩はなれて秋の風(正岡子規)
2003年11月23日行軍@A(道後村めぐり(5)、俳句の里・道後(9)) 宝厳寺の門前から坂を下ると、いわゆるネオン坂といわれる歓楽街がある。道後温泉を夜歩くことがないのでなんともいえないが、嬉野温泉などと比べると、道 後温泉はホテル街中心という印象を持つ。ただ、宝厳寺は最近火事により全焼してしまった。その後の様子を見たことがないが、国の重文が損失したらしい。 【03】旅衣木のねかやのねいつくにか身のすてられぬところあるへき(一遍) 【04】夕陽無限好糞掃衣すその短くくるふしも臑もあらはにわらんちも穿かぬ素足は國々の道の長手能土をふみ石をふみ来てにしみたる血
さへ見ゆか尓以たましく頬こけおちておとかひもしやくれ尖るを眉者長く目見の静けくたくひなき敬虔をもて合せたる掌のさきより者光さへ放つと見ゆれ伊豫の
国伊佐庭の山乃み湯に来て為すこともなく日をかさね吾者遊ふをこ能郷尓生れな可らもこ能み湯尓浸るひまなく西へ行き東へ往きて念佛もて權化したまふみすか
たをここに残せる一遍上人(川田順)
2003年11月23日行軍A(俳句の里・道後(10)) 宝厳寺は天智天皇の命により665年創建といわれ、時宗の開祖一遍上人の誕生地として知られる。 【05】旅衣木のねかやのねいつくにか身のすてられぬところあるへき(一遍)
2003年11月23日行軍A(俳句の里・道後(11)) 斎藤茂吉はよく知られた歌人、医師である。農家守谷家に生まれるが、浅草で浅草医院を経営していた親戚斉藤氏の養子となる。「アララ
ギ」の編集者ということで教科書にも掲載されていた。 |
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【06】はじめてのふなや泊りをしぐれけ里(夏目漱石)
2005年8月12日行軍B まあ、なんと申しましょうか、この旅館は多分中庭にあるであろう句碑を含めて四碑あるのだが、この碑だけを外に出して、他は外からは見えないようにしてい る。さすがは、皇族が松山にやってきたときに泊まる旅館だけはあって、なんともいえない威厳を感じさせる。 |
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【07】伊狹庭の湯はしもさはに梅咲けり(加倉井秋を)
2003年11月23日行軍A(俳句の里・道後(12)) 社伝によると仲哀天皇、神功皇后が道後温泉に来湯した際の行在所跡に建てられた神社だという。個人的には、ここのトイレにもお世話になっており、実際結構 掃除をしているのを見るので、大変気に入っている。宝厳寺からやってくると、伊佐爾波神社への長大階段を登らずにすむ。が、碑が見当たらない。階段の上か?下か?一度下に行って、違いました!ではたまら ない。よく探していると、上から見ると階段に隠された位置にあった。 【08】栗の花こぼれて居るや神輿部屋(河東碧梧桐)
2007年7月29日行軍@(道後村めぐり(6)) 河東碧梧桐としては、定型句だな、と思うのは私だけ?なお、道後村めぐりのスタンプは神社の正面にあるが、句碑は神社裏手の駐車場にある。 |
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【09】伊予とまうす国あたたかにいで湯わく(森盲天外)
2003年11月15日行軍A(俳句の里・道後(6)) 森盲天外は本名森恒太郎で、旧余土村の生れ。盲目のハンディの中で、県議会議員、道後湯之町長もつとめたという。【10】春風やふね伊豫に寄りて道後の湯(柳原極堂)
2003年11月8日行軍@A(道後村めぐり(13)、俳句の里・道後(6)) 放生園はもとは松山藩主によって作られた池で、御手洗川の水を引き入れていたという。石手川の本流も以前はこの近くを流れていたはずであり、足立重信が現 在の石手川に付け替えた後は水量も減っていたことだろう。さて、俳句と言うものを全く知らずにいながら、今まで回っていたのであるが、そんな私でも、俳句から雰囲気が浮かんでくるようになったように思う。俳句を 知る人から見れば、邪道かもしれないが、それで松山市のキャッチフレーズである「いで湯と城と文学のまち」の雰囲気を自分なりに楽しめたらそれでいいでは ないか、と一人開き直る。 |
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【11】伊豫の湯の汀にたてる霊の石 これそ神代のしるし成ける(古歌)
2003年11月23行軍@A(道後村めぐり(1)、俳句の里・道後(7)) ご存知道後温泉本館の裏手にある。正面玄関に「道後村めぐり」のポストがあるが、この碑は横手にある。案外見逃しやすいかも?この後は、円満寺、宝厳寺、伊佐爾波神社の順番で回ると無駄なく歩ける。道後村めぐりもそうだが、実際には、道後村めぐりの冊子や俳句の里巡りの順番に 回っていたら大変な大回りをさせられる場合がある。まあ、その途中の経路が重要な場合は、それはそれで判らないでもないし、実際観光客相手だろうから、判 りにくいルートを書いて迷われても困るのだろう。 |
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【12】日月照於上而不私神井出於下無不給(聖徳太子)
2007年7月29日行軍@(道後村めぐり(2)) 伊予国風土記逸文の中でこの聖徳太子の碑文のことが記されており、日本最古の金石文といわれているが、まだ発見されていない。 |
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